アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 192

「(四)フランス……イギリスが大陸から離れた孤島にあり、中世にあっては比較的後進国であったという故もあって、筆蹟鑑定の取り入れかたが遅く、かつ批判的であったのに対し、フランスでは地理的にも文化的にもローマにすぐ隣り合っていただけに、筆蹟鑑定に関する法律はそのままローマから移入され、更に、鑑定内容をより良くするため鑑定人の資格に重点が置かれていた。中世から masterーwriter (筆蹟修士)という名称があって、彼らはギルドを作っていたが、特に裁判所あるいは政府から保護されていた、というようなことは無かった。しかし十六世紀に入るとそのギルドは認められ、王から筆蹟鑑定に関する特権を与えられるようになった。筆蹟鑑定人になるための資格などは、かなり詳しく明文化されている(一五七〇年)。十七世紀後半のルイ十四世の時代には、マスターライターは国家試験によって資格を与えられるようになった。試験の内容はかなり面倒なものであったらしい。さらに一七七二年には、王直々の規定の基に厚い保護を受け、非常に名誉ある職となった。鑑定人は一般的教養はもちろん、古文書にも通じており、数学にも錬達しており、態度・振舞・会話なども威厳を持つように要請されている。古文書学も裁判における筆蹟鑑定と一体になって発展している。十九世紀に入ると商業的、あるいは経済的な事件が続発し、それまでの単純な筆蹟鑑定方法だけでは間に合わなくなり、鑑定方法の進歩を促した。一八〇八年には、筆蹟鑑定の採用は民事関係のみでなく刑事関係にも拡張された。三人以上の鑑定人によって鑑定させるという規定もこの当時から現在まで続いているものである( Code of Civil Procedure,  1953. Article 196)。(引用は続く)                                         

(本文とは関係ない写真であるが、狭山事件ではその発端となる場所、「第二ガード」である。当時の面影が残り、ここを訪れるたびに私の身は引き締まるのだ)