アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 140

戸谷報告は続く。「私がみた鑑定書の中で、ある事件で一人の人が鑑定しているのは、ただ勝手に適当なものを取って来てではなくて被検文書の中での例えば木偏を全部集めてみる、そして集めた木偏同士で比較されようとしているのがありましたが、これはかなり正しい比較になると思います。人一人の書く字が全く機械的に同じだということはあり得ないわけでありますから、被検文書にみられる木偏なら木偏の第一画と第二画の比、それが照合文書にみられる木偏の第一画と第二画の比を全部集めてみて、そして両方で比較するというのはいいが、ただその人自身、それが似ている似ていないをそれから判定しているわけでありますが例えば似ているからと言って問題は稀少性があるかどうか、そういう分布は割合に普通皆が書くような分布であればしようがないわけであって、他の人はそういう書方をしない、そういうものであるかどうかを検討されていません。例えば日本人が一億います。この中で七、八割くらいの人は字を書くわけで、そういう七、八千万人位の人が一般にどういう字を書くか、その中でその人が飛抜けてかわった字を書く特別の癖をもっているということを検討してみないことには、両方の文書の木偏が似ているからこれは同一人らしいということは言えないわけでありますが、私がみた一番良心的というか科学的にやっておると思われる方でも稀少性については殆ど考慮されていません。常同性については、集めた木偏なら木偏、しんにゅうならしんにゅうの中で、そういう勝手な木偏あるいはしんにゅうが書かれているわけではありませんから、そういう意味では常同性についてはその人自身も述べているが稀少性ということを検討する場合には当然に一般に皆がどういう字を書くかということの検討までしなければいけないわけです。然し〜」と、戸谷鑑定人の報告は続く。今、この戸谷報告を読みながら私は満足感を得ている。少なくとも私が所有する狭山事件に関する書籍にはここまで長文に及ぶ戸谷報告は載っていないからである。戸谷氏に関してはせいぜいが名前、略歴、そして鑑定方法とその結論の要約に終始した扱いが殆どである。しかし狭山事件の本質に触れてゆくとき、そのような書籍では不満が生じる。私は情報不足に陥った。筆跡鑑定を例にとった場合、ブログに引用したような、幅広く奥深く多角的で濃密な考察が行われていたことが明らかになり、昭和三十〜四十年代の有名な冤罪事件が頻発した時代においては、本事件の弁護団や鑑定人はかなりの努力を払ったと言えるであろうことが分かる。いずれにせよ戸谷報告のような資料を読めて私はすこぶる幸せである。                          

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