アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 929

【公判調書2932丁〜】

                   「第五十五回公判調書(供述)」

証人=小島朝政(五十六歳・財団法人埼玉県交通安全協会事務局長)

                                            *

橋本弁護人=「石川被告人の家の家宅捜索をやっておりますね、あなたはね」

証人=「別なことですね」

橋本弁護人=「ええ、別なことです」

証人=「はい」

橋本弁護人=「五月二十三日逮捕の日と、六月十八日と、六月二十六日ですか」

証人=「はい」

橋本弁護人=「三回に亘って家宅捜索をしてますね」

証人=「はい」

橋本弁護人=「そうしますと、あなたの狭山事件でやった仕事というのは、手拭いの捜索と、腕時計の捜索と家宅捜索とこの三つになるわけですね。今まで聞いた範囲では」

証人=「そうですね」

橋本弁護人=「で、それ以外にもあるんじゃないですか」

証人=「ほかに記憶に残っているような捜査というのは、ほかにございませんですね」

橋本弁護人=「ないですか」

証人=「はい」

橋本弁護人=「個々の証拠物の出所や使用方法などについて、あなたは捜査をしたことないですか」

証人=「証拠物の出所はやりませんでした」

橋本弁護人=「やりませんか」

証人=「はい」

橋本弁護人=「ノート、封筒、ボールペンなどの出所についての捜査はいたしませんか」

証人=「いたしません」

橋本弁護人=「この事件で『りぼん』という少女雑誌が問題になってますね」

証人=「はい」

橋本弁護人=「この少女雑誌について、特に捜査をしたことがあるんじゃないですか」

証人=「そう記憶がありませんです」

橋本弁護人=「六月二十六日の家宅捜索の目的は一つには少女雑誌の押収が入っておりますね」

証人=「はい」

橋本弁護人=「その記憶はあるんですか」

証人=「ございます」

橋本弁護人=「それ以外に少女雑誌を入手するため、あなたが捜索をしたことないですか、捜索というか、捜索をしたことありませんか」

証人=「ございませんです。というのはですね、先ほど申し上げました五十子という手拭いの出所の捜査がだんだん縮小されたので、捜査員の一部が余裕ができたのでそれで、数回にわたり石川方の捜索をやったので、私の方の仕事としては、まあ、こうした作業の中の一部に過ぎなかったわけですから、したがって、この証拠品の捜査などというようなものは、やったような記憶はございませんです。ですから、たとえば少女雑誌の捜索にいたしましても、押収物はこれだけだよ、押収品目はこれだけだよということで指示されて捜索したのみであって、前後にそれに関する捜査というものはやったような記憶はございませんですがね」

橋本弁護人=「三十六年十一月号の少女雑誌『りぼん』というのを警察は入手しておりますね、それは知っておりますね」

証人=「何というんですか」

橋本弁護人=「少女雑誌『りぼん』という三十六年十一月号を手に入れたことがありますね。警察が」

証人=「あれは捜してもなかったんじゃないでしょうか、捜索目的は『りぼん』という本を捜索に行ったけれども、それがなかったように記憶しているんですが」

橋本弁護人=「なかったというのは、石川被告人の家にはなかったということですね」

証人=「そうですね」

橋本弁護人=「その後、川越のほうから私が今申し上げた雑誌を手に入れたでしょうか」

証人=「それは私は・・・・・・」

橋本弁護人=「あなた、それには関与してなかったですか」

証人=「全然」

橋本弁護人=「記憶にないですか」

証人=「記憶ないです」

橋本弁護人=「また、ちょっと変わりますが、家宅捜索の目的の中に被害者の財布というのがありましたか」

証人=「記憶はございませんですね」

橋本弁護人=「記憶がないですか」

証人=「はい」

(続く)

                                            *

                       『狭山現地・いまむかし』

西武新宿線狭山市駅を降り、線路脇の道を川越方面へ向かうと幾つかのガードが見えてくるが、狭山事件で被害者となった中田善枝さんが最後に目撃されたのがこの第一ガードであった。

【昭和38年】

【昭和63年】 

【令和3年】駅からここまでは、やや起伏のある地形であり、私のような老体にはかなり堪えた道のりであった。

こちらは第二ガード(向かって左側が狭山市駅方面)。なお、この写真は電車を同時に撮りたく、ビール片手にチャンスを待っての撮影となった。

本川越駅を発車した電車が第二ガード上付近を通過するその時、進行方向左手には事件当時からほぼ変わらぬであろう雑木林や畑で埋め尽くされた、どこか懐かしい情景が確認できる。二枚目の写真右端の建物は狭山市中央中学校

                                            *

昭和三十八年五月一日午後三時二十分頃、上述のとおり第一ガードで被害者の中田善枝さんが目撃されていた。目撃者はこの日、荒神さま(三柱神社)で行われた祭りの帰りすがりの老婦人であり、第一審での証言によれば『ガード内の脇に自転車を止め、誰かを待っている様子』であったと供述、なぜこの状況を詳細に記憶しているのかという理由としては、自身の娘(孫の可能性もあり)が高校へ進学した場合に、目の前にいる娘さんが所持しているような自転車を購入したりせねばならず、大変な出費が予想される等の心配から、じろじろと中田善枝さんを眺め、視線を感じた善枝さんはやや顔をそむけたとまで語っている。

この狭山事件の裁判では、「記憶に無い」「忘れました」という証言を発する証人が多い。それは特に捜査を行なった側に顕著に見られるわけだが、そんな中において信憑性に満ちた証言も存在し、この老婦人の供述がまさにそれにあたるのだ。

普段の通学路とは正反対の方向になるこの場所になぜ善枝さんは来ていたのか、事件の真相にかかわるこの事実は、警察・検察によれば、それは何ら解明されぬままである。(写真と文章は一部"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)