アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 865

(昭和三十八年六月二十七日付、証人=青木一夫作成・供述調書添付図面の一部。日付の下に被告人=石川一夫との署名が確認出来るが、当時、彼は本名である"一雄"という文字が難しすぎて書けず、"一夫"で通していた。この事実は、狭山事件の端緒となる中田家に届けられた脅迫状が、果たして石川被告人の識字能力で執筆可能であったかどうかとの問題につながる)

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【公判調書2709丁〜】

                    「第五十二回公判調書(供述)」

証人=青木一夫(五十六歳・川越市役所臨時嘱託)

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福地弁護人=「最初に石川被告が道路の真ん中に時計を置いたという供述をした記憶があると言うんですね」

証人=「はい」

福地弁護人=「それをそのままあなたは調書に書いてありますか」

証人=「調書に書いたかどうか記憶が今申したように・・・・・・」

福地弁護人=「もし調書に書いたとすれば調書の中に今でも残っていますね」

証人=「書いたとすればあると思います。ですからそういう真ん中ということはあり得ないじゃないかということを更に尋ねまして、あるいは訂正されているかも分かりません。これは記憶ですから」

福地弁護人=「もし被告人が道路の真ん中に置いたという供述をしたとしますと、あなたはそれを聞いたと、そういう記憶あるわけでしょう」

証人=「はい」

福地弁護人=「普通なら当然調書の中にそういう記載があるはずですね」

証人=「聞いて、それはおかしいじゃないかということで更に聞いて訂正された場合には調書に取らない場合もあります」

福地弁護人=「それはあるでしょうね、当然そうでしょう。すると道路の真ん中に時計を置いたということが現実に調書の中にないんですがね、ないとすればあなたが喋った通り調書に書かなかったか、または道路の真ん中に置いたということは石川被告が後で訂正したか、そのどちらかですね」

証人=「はい」

福地弁護人=「どちらでしょう」

証人=「調書を一つ見ていただきたいんですが」

福地弁護人=「見ましたよ、書いてないですよ」

証人=「書かいてないとすれば調書を取る以前に訂正になったものと思います」

福地弁護人=「どういう風に訂正になったのでしょうかね、真ん中に置いたということが訂正になって、道路の真ん中に置いたんじゃないということになったんでしょうか」

証人=「はい、今ここで申しましたように、その当時非常に強い印象を受けたのがそういう言葉だったんですけれども、あるいはその後訂正になってるとすれば調書に書かれていることが正しいと思います」

福地弁護人=「現実には調書の中には別に訂正はないんですよね」

証人=「よく、そのほかの記憶ありません」

福地弁護人=「今の、二一一四丁の図面について重ねて聞きますけれども、時計を捨てたところというのは道路の真ん中になってませんね、その図面ではね」

証人=「はい」

福地弁護人=「六月二十四日に、最初に、時計を図面のところに捨てたという自白があったわけですね」

証人=「はい」

福地弁護人=「あなたはこの自白を取った後、たとえば、じゃ時計を捜しに行きましたか」

証人=「私は行きません」

福地弁護人=「あなたは行かない」

証人=「はい」

福地弁護人=「誰が行ったんですか」

証人=「誰が行ったか記憶ありませんけれども、あまりにも供述がすぐに納得出来るような話ではなかったように思いまして一日かそこら遅れていると思います、捜索が。で私が行ったんじゃありませんからよく分かりませんが、それで、最初の、余分な話になるかも知れませんが、捜索に行った時には発見ならなかったと思います」

(続く)

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写真は昭和三十八年五月一日夕方、被害者宅へ届けられた脅迫状である。今ここで注視したいのはその筆跡からうかがえる筆運びの勢いである。これを執筆した人物の筆運びのリズム感が垣間見える。

こちらは昭和三十八年六月二十七日付の供述調書添付図面に残る石川一雄被告の文字。

脅迫状は一種の文章であり、一方は手書き地図の図面の説明に過ぎず、これらを同じ土俵で比較することは避けなければならないだろう。今私はタラチャンジャをつまみに一杯やっており、これ以上ムズカシイことは述べられぬが、しかし、五月一日の脅迫状は達筆であるのに、その二ヶ月後の供述調書添付図面の文字は脅迫状の面影なく、劣等小学生並みのそれであるのはなぜか。文字の学習能力、その順序が逆転してはいないか。

その答えは常識的に言えば、これらはそれぞれ別人が書いたからであろう。