アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 537

【公判調書1701丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

 三、再逮捕、再勾留と自白強要

(二)被告人の当審供述と自白強要の手口

被告人は当審第一回法廷で自らの無実を訴え、第二回公判以後どうして嘘の自白をするようになったのか、どうして虚偽の自白が作られてきたかを訴え続けている。

「六月十七日、 “帰っていい” と言われたが、その途端にまた逮捕され、警察のジープで川越に連れて行かれた。十八日には裁判所に行くものとばかり思っていたが、連れて行かれなかったので弁護士が嘘を言ったと思い、そのことを警察官にも話した。長谷部らに “言えば十年で出してやる。警察官は弁護士と違って嘘は言わない。信用しろ” と繰返し言われた。また青木は “俺もお前も一夫どおしだ、心を打ち明けて話そう、善枝さんのことだ。お前知らないわけはない” と言って調べに加わった。

十九日か二十日頃、留置場の食事がまずく、そのことで看守とケンカをして絶食をはじめた。長谷部らは、“署長と狭山にいるとき約束したことは何だ。善枝さんのことだろう、三人のことを話せ、警察を甘く見たらいけない。自白しなければいつまでも出してやらない、と怒って自白を強制したり、逆にまた “弁護士と違って我々は嘘は言わない。お前が善枝さんを殺したと言えば、十年で出してやる。十年あれば職も覚えられる、約束する” と繰り返し言い続けた。自分は次第に十年で出してくれるなら話して了おうかと迷いはじめた。自分の家の近所の人が以前自動車を盗み懲役七年になったことがあったので、自分はすでに自白していた別件が九件あるので、十年近くの懲役にやられるだろうとも考えた。どうせ懲役に行くなら十年で出てくれば三十五才くらいで未だ充分働いて行ける、とも考えた。殺していないものを殺したとは仲々言えなかったが、“善枝さんを殺したと言わない限り釈放してくれない” と長谷部らが言うし、迷い続けた。絶食をはじめてから暫く経ったのち、警察は医者を呼んで自分を調べさせた。その後、二十三日頃の夜、長谷部らが “いま関さんが来ると電話がかかってきた。善枝さんを殺したと、自分にでも関さんにでもどちらにでもいいから話せ、十年で出してやることは約束するから” と言った。やがて被告人の近くにいた、野球で知り合いの関巡査部長が “署長さんから、三人でやったことを聞きに行って来いと言われて来た” と言って長谷部らのいる取調室へ入って来た。長谷部は “今、出てしまうから、自分に話にくかったら関さんに話してくれ” と言った。関が私の握って泣き出してしまった。“話さなければ帰るぞ、善枝さんを殺したことを話さなければ帰るぞ” と言って泣いた。関はまた “話さないのか” と泣き、それで俺も泣きながら “三人でやった” ということを話した。三人でやったと言ったとき、 “狭山精密の方に行く道を出て、お寺の近くで殺した” と言ったが、“そこから死体が埋めてあったという所まで何で運んだのだ、自動車だろう。誰のだ、入間川の男は誰だ。入曾の男というのはわかっている” と聞かれた。自動車のことを聞かれて、もしそうだと答えると、その自動車のことを追及され、結局ウソがすぐばれるので困っていた。その頃、原検事から “おまんこを自分はしていない、といってもだめだ。精液を出して調べればすぐ判る。そんなことを言っていると、いつまで経っても出してやらないぞ” と言われた。こうして責められ、おっかなくなり、ついに一人でやったというように自白を改めるようになった。取調べは六月末頃まで深夜におよび、夜中の十二時を過ぎたこともあった」

こうした被告人の当審供述はこの裁判にとっていくつかの重要な内容を含んでいる。それは自白生成の実態が、弁護人との信頼破壊工作、偽計、利益誘導、脅迫、泣き落とし等の組合せによる自白の強制に外ならぬことを示すばかりか、自白の始期が調書の日付よりも実際は何日か後であり、自白調書の日付は実際の自白の日を示すものでなく、遡った日付であること、従ってまた、原判決がいうカバンなどの発見が、実は自白に基づくものではないこと、総じて自白が虚偽架空の物語であることなど多くの問題を提起している。ここではそのうち若干を指摘するに止める。

*「若干の指摘」は、次回引用の(三)以降に記載されている。

石川一雄被告人に対し精神的拷問が続けられた、当時の川越警察署分室(特設調べ室)。毎日新聞6.24の記事によれば、「石川を拘置している川越署分室は相変わらず有刺鉄線を張りめぐらし通用門は堅く閉ざし、二人の機動隊員が目を光らせ、二十三日からさらに取調室の室は外に見張り番を配置し、物々しい警戒ぶり。午前九時ごろ取調官の長谷部警視が姿を現したが、"何もいえない。本部で聞いてくれ"と素気ない返事。また午後一時四十五分頃、原検事が書記官に風呂敷包みを持たせ裏口から入ったが、これまた報道陣にはいっさいノーコメント。朝から張り込みの報道陣も取りつくしまもなかった」とある。読売新聞6.25の「初めから川越分室のような特設の調べ室で対決していたらあっさり自供を引き出せたかも知れない」とは竹内狭山署長のコメントである。(写真は"狭山差別裁判・第三版"部落解放同盟中央本部編=部落解放同盟中央出版局より引用)