アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 554

【公判調書1793丁〜】

東京高等検察庁検事=平岡俊将の意見

四、最初の自白時期が六月二十三日以後であるとの一理由として、被告人が川越分室移監後絶食したことを挙げてその日時の関係等を主張しているが、被告人がある程度の拒食態度をとっていたことは当審の関源三の証言にも認められる。しかしながら検察官の調査によればそれは数日間に亘る完全な絶食状態等ではなく一日のうち一食又は二食を拒否するとかパンを代用するとか留置者用の差入弁当を拒否して警察官らと同様の食事を提供させて食するという状況にあったようで、このことは当審二十六回公判における被告人の陳述中にも一部符号する節がある。右のような絶食状況があったとしても、それと自白ということが相容れないものであるという絶対的理由とはならない。

被告人の七月六日付警察官調書の十一項に、"私が摑まってから警察で調べられている間で一番嫌だったことは善枝ちゃんを殺したことを隠している時が一番苦しい思いをした、その項は飯も食いたくなかったが話をした後は腹がへって三回の飯だけでは足りないほどです"と述べているような面もある。

五、被告人は当審第七回公判(四十年十月五日)における証人青木一夫に対する被告人質問の中や同二十七回公判(四十三年九月十七日)における陳述の中で、殺したといってから長谷部警視にそれでは善枝ちゃんに詫状のしるしがあるかと言われ、狭山署に書いてあると嘘を言ったが狭山署にないことがわかったので叱られると思い、取調べから帰されて川越分署の房に慌てて爪で(なお七回公判では爪と言い、二十七回公判ではマッチの棒で書いたと思うと変更した)その趣旨の文字を書いた旨、なお六月二十三日にアンパン三個買ったその袋で長谷部から教えられたように紙を切り文字を書いた旨の陳述をしている。

当審二十七回公判(四十三年九月十七日)で中田弁護人はこの点につき、被告人に「六月二十四日付で伊藤という警察官の実況見分調書がある。それについている写真を見ると、じょうぶでいたらせんこうをあげさせて下さい、ということを壁に書いてあってそれから切り紙みたいなもので中田善枝さんゆるして下さい、ということを壁の下の方に貼ってあるが伝々」の質問をしている。

原審記録第七冊一九一二丁以下伊藤操作成実況見分調書によれば、見分時は六月二十四日午後二時から二時三十分で、被告人が当時入所していた川越分署第四房北側の羽目板に「じょうぶでいたら・・・・・・(・・・・・・の部分は七月五日付原検事作成調書三項、同七日付河本検事作成調書五項に被告人の供述として自白するに至った心境と右の文字の点について、・・・・・・の部分は一週間に一度づつというものであることを述べている)せんこうをあげさせてください」と書かれた文字の写真があるが、これは明らかに六・二十日石川一夫入間川という文字が見える。この六・二十日という日付はいかなる意味を持つというのであろうか、被告人の言うような事情で六月二十三日頃書いたものであるとすれば右の六・二十日の文字は理解し難いものである。また右見分調書には房内を捜索したが何も発見することが出来なかった旨の記載がある。これによるとその際には床板上に紙を千切ったもので印した「中田よしエさんゆるしてください」との文字はなかったと見る他はない。

そして同記録一九二〇丁以下にある七月十一日付村松定夫の「写真撮影について」という報告書によれば、右第四房の南側羽目板の敷板の上に紙を千切ったもので「中田よしエさんゆるしてください」と表示されていたことが添付の写真で明らかであり、これの撮影日は七月九日である。これらを比照検討すると右二種類の文字は別の時に記されたものであり、七月九日は被告人が川越分署から浦和刑務所へ移監された日であって、紙を千切って印した方は移監後房内を改め発見したものであって、羽目板に印された文言の内容といい日時等から見て前記の被告人の陳述は事実に即していないものであると考えられる。むしろ右羽目板の文字は六月二十日被告人が最初の自白をしたことを推認させる状況のものであり、また紙きれによる文字は移監当時まで被告人がそのような心情を持ち、これを印したまま残していたものと見られるのである。

六、さらに被告人は第六回公判(四十年九月二十一日)における証人=関源三に対する被告人の質問中で、

問「三人でやったということを証人に言ったのは何日か」

答「二十日です」

問「証人はその次の二十一日に来て入曾の男は分かっているが入間川の人を教えてくれてと言ったことを覚えているか」

答「私は入曾の人、入間川の人、両方教えてくれと言ったのです」

問「その時俺が早川を中心にしてどちらかと聞いたら北の方だと言ったがどうか」

答「石川がこれは入曾、これは入間川と言えない人だというので、私が言えないといってもこれを石川一人でやったようにはさせられない伝々。三人でやったことを石川一人に背負わせるわけにはいかないと言いました。そのことは二十日か二十一日であったと思う」

と答えているのに対し被告人は、

「それは二十一日の午前中のことであったと思うが、その時に証人は家にいるときから入曾の男がくさいと思ったと言ったが、伝々」

と述べている。

当審第二回ないし三回公判(四十年七月十三日、十五日等)において既に被告人は、最初三人の犯行であると関源三に自供したのは六月二十三日頃である旨を主張しているように思われるのに、その後の前記第六回の関源三に対する質問では右のような六月二十日、二十一日であったような発言をしているのは被告人の思い違いによるものであろうか。日時に関する被告人の主張や陳述が正確なものであるとは信じられない一証左で、このことは種々の点において次項以下にも述べるように一見正確な記憶に基づくかのごとき被告人の当審における陳述自体の中に、その時により矛盾撞着するものがあって混乱しており、その陳述主張をたやすく信用することはできないのである。

以上のように自白の日時に関する被告人の陳述、殊に数通の調書をまとめて署名させられたり図面の日付を書かされたりしたなどの主張は到底容れ難く、その主張を合理的に実証するものは何も現れていないのである。(続く)

(写真二点は"狭山差別裁判・第三版、部落解放同盟中央本部編=部落解放同盟中央出版局"より引用)

*物凄く冷徹、堅牢で鋼岩盤のごとき平岡検事の意見である。職務上、これは当然の行ないであろう。