アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1120

『原文を読みやすくするために、句読点をつけたり、漢字にルビをふったり、中見出しを入れたり、漢字を仮名書きにしたり、行をかえたり、該当する図面や写真を添付した箇所があるが、中身は正確である』

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【公判調書3472丁〜】

「筆跡などに関する新しい五つの鑑定書の立証趣旨について」

                                                                弁護人:山下益郎

                                           (二)

(立証趣旨の概略)

1「大野晋鑑定書について」

本鑑定は結論として、脅迫文本文の起草者と上申書の筆者との間には、漢字表記能力、仮名使用上の能力において格段の相違があり、上申書の筆者は脅迫文の起草者たりうる能力を有しないと断定しました。本鑑定人は右結論に至る前提として、まず上申書の筆者の表記能力の程度を明らかにし、そこで明らかになった表記能力しか持つことの出来ない筆者が、果たして脅迫文を作成表記することが出来るか否かを、実証的に吟味したのであります。

本鑑定書は、石川君が上申書を書いたという事実さえをも一応問題として取り上げます。つまり「上申書の書き手は一貫して平均した速度で書いており、特別の技巧を弄した表記ではない。したがってそこに表記された誤字誤表記、脱字は書き手の表記能力を自然に反映させた結果がそのまま出ている」と指摘し、その誤表記などについて上申書を実証的に分析します(詳細は鑑定書参照)。次いで石川一雄の当時の表記能力が如何なるものであるかについて吟味を加えているのであります。その資料として石川君の小学校在学当時の成績表および当審二十四回公判における戸谷鑑定人の被告人質問の結果を用い、この点について鑑定書は「石川一雄の学歴、成績をみるに国語の書く能力はマイナス2の評価を受け最低となっている。また戸谷鑑定人の被告人質問によれば、選挙に行く前には、家で習字して投票に行くことが窺われ、これは石川一雄の文字能力を如実に示すものである。つまり上申書から分析して得られるその筆者の文字能力と現実の石川一雄の文字能力とは正に同一のものであることが理解される」と判断し、ここで初めて上申書は石川一雄が書いたものと判断してよいと結論づけています。

本鑑定人は同様の方法を用いて脅迫文を分析し、そこでは次のごとき当て字があるという。

「し→知」、「で→出」、「警察→刑札」、「来→気」、「き→気」、「し→死」。

「ところで、これらの当て字は、つまり仮名は普通の仮名で書くほうがはるかに容易、自然であって、助詞の『で』に『出』を書くごときは極めて作為的であり、今日の社会ではこれらの当て字を使用することは極めて不自然である。脅迫文の当て字、誤表記はむしろ低い知能の者ゆえであるというより、むしろ高度の表記能力を持つ者の手になると考えざるを得ない」のであります。長野鑑定はこの点について「当て字の一部には計画的に書かれたものも含まれているかも分からないが、大体において習慣的、無意識の中に書かれたものと見るのが妥当のように考えられる」と言い、関根・吉田鑑定では「各対応する資料両者に誤字がある。かような誤字は誤字を書きながら正しい文字と思い、これに気付かないのである」と判断していますが、これら似非鑑定が大野鑑定の科学的、国語学的批判によく耐え得るものではないことは極めて明らかなところであります。

ところで脅迫文中、「で」と仮名で表記すべき箇所が六回ありますが、

すべて例外なく「出」を当てており、これから見て脅迫文の書き手はかなり高度の注意力、集中力を備えていたと見なければなりません。これは下書きがなければ可能な芸当ではなく、普通であればうっかり間違えるところですが、脅迫文には一字の訂正箇所もなく、計画的に当て字を用いたことは極めて明白と言わざるを得ません。したがって石川一雄君の表記能力では、係る計画的な当て字を用いながら書き誤ることなく書き上げるなどということは、およそ不可能と断じて差し支えないというのが本鑑定の立証趣旨であり、結論であります。

(続く)

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狭山事件の真犯人が書いたと思われる脅迫文には当て字が多いのだが、何故その当て字を採用したかという意図を掴むのは難しい。

例えば、「時間通り無事に帰って来なかったら」を脅迫文では「時かんどおりぶじにか江て気名かったら」と記述しているが、相手を脅迫し身代金を喝取するという観点から見れば、こういった当て字には全く意味がない。とすれば、やはりこれらの当て字の使用目的は知的能力の低さを装った偽装と見てよいのかも知れない。