アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1452 獄中生活⑥

「続・さらばわが友」第二部 "狭山事件石川一雄の獄中生活"より引用。本書第二部の文章は昭和五十二年末ごろより書かれたものと思われる。

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    『受刑者の一般用語でいえば、「石川もやっと一人前の受刑者になった」ということになる。その石川の減点の理由は、房内でかゆい頭を洗ったとか、冬期房内に吹き込む寒風をさえぎるために窓枠に紙で目張りをしたとか、私本の閲読期限が切れても気づかずになお持っていたとかいった類いであって、受刑者としての根本姿勢を問われるような反則では決してない。ということは、石川もなかなか利口な男で、要領がよいということになる。そして慎重な性格であった。将来起こりうるかも知れない可能性に、なんでも備えておくといった生活態度を持っていた。おそらく狭山事件の苦い体験から体得したものであろう。石川は、刑務所の中で発生した事柄は、どんなことでも必ず書き留め、記録に残していた。どんな小さな事象でも、石川は便箋の一行のマスに二行ずつ、小さな字でびっしりと書いていた。四級者は書信の制限が厳しいし、便箋の使用枚数も制限されているから仕方がないものの、こんな者は珍しい。

    刑務所では房内で書いた手紙を翌朝工場に持っていって出すので、どこ宛によく出しているなどということは、同じ工場内の者は自然に皆んな知ってしまうことになる。四六時中、寝ても起きても生活が一緒だから、親兄弟よりも囚人同士はお互いのことを知り尽くしている。お互いの家庭内のことも・・・・・・。石川が手紙を出す宛先は、ここでは書かないことにする。

                                          (略)

    石川の毎日の作業態度は、じつに良い。彼は、自分に与えられた仕事には、ことのほかに熱心に取り組んで、手早く仕上げている。作業時間いっぱいまでやるが、そんなのはめずらしい。やはりスポーツマンであるので、身体、手先はよく動く。しかしながら、出来上がった製品はそれほどきれいなものとは言い難い。少々荒っぽく粗末な製品が出来上がってくる。課程といって、生産数量にノルマが課せられているので、誰でも数量を急ぐことになる。急げば必然的に粗末な製品となる。石川は一人でやる仕事を好み、ほかの囚人たちと協同でやる仕事はあまり好まない。

    刑務所で毎日仕事をしていると、月末に「賞与金」といって、月給が支給される。石川たちのような四級者は月々約二千円ぐらい、一級者になると、月々五千円くらいと大体定められている。でもその額は、作業している業種によって多少上下があり、危険な仕事をしている者には、危険手当も付くのでだいぶ割高になっている。

    ところが支給される毎月の賞与金をそのまま全額は使用させてくれない。四級者は支給額の四分の一、三級者は三分の一、二級、一級者は二分の一しか所内で日用品などを買うために使わせてもらえない。ごくわずかの金額である。これは出所後の更生資金として強制的に積み立て、残しておこうとする法務省の配慮からである。賞与金のほかに、「自己労作」といって、相当に金になる夜間房内内職を一、二級者には許可しているため、二十年近く服役した受刑者は八、九十万円くらいの現金を持って出所するのはザラである。

    石川は浪費家ではない。シマリ屋の部類に属する。所内作業賞与金は決して使わない。それは残しておいて、自分が持って来た「領置金」で生活上の必要品を購入している。それも決してほかの受刑者に比較して多くは使わず、無駄金はまったく使わないほうである。日用品はあまり買わず、せっけんも官給品のタダのものを使用している。だからといって、石川は金を持っていないのではない。弁護団、支援団体などからの差し入れ金の額も大きい。

    石川が主として買う品物は、ボールペンと罫紙である。支援団体などに送るメッセージなどを書くためのものであろう。所内では「週間平凡」をよく買っていたし、彼は殺人関係の小説が好きで熱心に読んでいた。石川のところには、弁護団から書籍の差し入れが多いが、受刑者たちは読んでしまった本は普通「廃棄処分」といって捨ててしまうものであるが、石川は決して廃棄せず大事にする。「宅下げ」という手続きをとって、読了した本はたいがい自宅の父親宛に郵送している。

    石川には弟がいた。この弟が面会に来る。そのほかには弁護団の人々とか、部落解放同盟中央本部の人たち、また社会党などの代議士も面会に来る。受刑者への面会は、テレビなどでよく見られるような、おなじみの金網が張ってある面会室と思われるだろうが、千葉刑務所はプラスチック越しである。しかし石川のところに来る代議士たちは、まず刑務所長のところにやって来るので、所長が丁重に応対したあと、面会室で面会する。面会時間は三十分間である。

    これらの石川に関する事柄は、部落解放同盟中央本部や、中央狭山闘争本部のU専従書記にわたしが直接会い、詳しく取材した。

                                          (略)

    面会や手紙すら来ない孤独な受刑者にしてみれば、石川のように弟が面会に来たり、強力な後援者たちが所長室などにやって来るのを見ると、羨望を感じるのだ。社会から追いつめられた者たちの多い受刑者の感情として、このような「幸福な状態」の石川に、ひがみの気持ちを持つことは、誠に自然の成り行きであった。

    これは石川本人には何ら責任のないことであるが、複雑な人間感情の錯綜している刑務所内では、石川は決して感情面からは良好な立場にはない。刑務所とはじつにやりにくいところである。

    狭山事件の支援団体が、刑務所の高い塀の外側からスピーカーで、「石川さん頑張れ!」「無罪を勝ち取ろう!」などと石川に呼びかけ激励する。すると刑務所当局は、そのスピーカーの音を受刑者たちに聞かせまいとして舎房内のラジオの音量を急に大きくする。これは刑務官がダイヤルを回す現場を見たわけではないが、常に急に音量が高くなるので、全受刑者はそう信じている。舎房で勉強している連中はラジオの音が大きくて勉強できない。「石川のやつ!うるせえなぁ」ということになり、そのはね返りは石川本人にめぐってくるというわけである。

    石川も、もう四十一歳である。昭和三十八年五月の逮捕以来、十七年にもなろうとしている。二十四歳の頃は髪のふさふさとした紅顔の青年であった彼も、今では頭が薄くなってしまって、地肌がツヤツヤと出てしまった。人生の大半を高い塀の中で過ごす運命におかれた彼にとって、現在、第二回目の再審請求だけが唯一の光であり、生活の支えでもある。この光明を遠くに見つめ、今日も石川は大好きな野球に心の憂さを晴らしていることであろう。

    わたしも石川と同じ千葉刑務所に十五年間過ごした。その苦しみは決して未だわたしの心から消えていない。それゆえに、わたしは石川一雄元被告の将来に必ず幸福が訪れることを心から強く強く念じつつペンを置く。「石川さん!頑張れ!」』

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    ◯以上で、『続・さらばわが友』第二部"狭山事件石川一雄の獄中生活"の引用を終える。

    なお本書の著者は、昭和二十九年に発生した「カービン銃ギャング事件」の主犯だった人物である。この方の略歴を簡単に述べると、次のとおりである。

    某国立大学経済学部卒、国鉄・通訳・自衛隊・貿易会社を経たのち本事件を起こす。その後、千葉刑務所を出所後、この方の前歴を知る東京・銀座の、とある有名会社社長の庇護のもと管理職に就任している。

    ところで、本書の著者は自身の名前を「K・O」と、アルファベットで表記している。これは前科・前歴があることと、出所後の就職活動などに支障が及ぶための対策・処置と思われる。だが現在のインターネット時代においては、いとも簡単に伏せていた面が割れてしまうのである。カービン銃事件を検索すると、すぐさま次の情報が出てきた。

『「カービン銃ギャング捕わる」昭和二十九年六月十三日、防衛庁技術研究所経理係長夫妻をカービン銃とピストルで監禁、公金九十七万円を奪ったギャング事件の共犯、山本、丸山、高田らが、仲間割れから相次いで逮捕され、高飛びしていた主犯=大津健一は、大分県の平温泉で愛人と自炊生活しているところを七月二十二日に逮捕されました。翌二十三日には愛人=田中みさをと共に二等車で東京に護送、東京駅は溢れんばかりの野次馬で下車することが出来ず、上野駅から下車、丸の内署に入りました。こうして異常な関心を集めたカービン銃ギャング事件は四十日ぶりに解決しました』

    ◯隠し事などが、ものともせず暴かれる現代社会は、どうもにも住みづらいものであるな。