
狭山事件が起きた当初、地元警察署の捜査員たちは、その舞台の一つである狭山市堀兼地区へも聞込み等の捜査を行なっていた。しかし、意に反し堀兼の人々はなぜか沈黙を守った。かろうじて聞き出せた情報を集約すれば、おおよそ「よそ者のしわざに違いない」という趣旨の返答ばかりであった。
堀兼に住み農業を生業とする人々が狭山事件に対してなぜ頑なに口を閉ざしたのか。この疑問を解けるかどうか、次の記述を見つけた。
『石川君が特殊部落の出身者であるということは捜査の過程その他で、堀兼地区付近、捜査している付近が昔、むしろ(莚)旗をたてて押しかけて来られたんだという話がだいぶ出て参りまして、それで知ったんでございます。捜査員の話を聞いておりますと、そういうことで堀兼地区の住民はなかなか口がかたい。昔、むしろ(莚)旗を掲げて押しかけてきた事案もあるし、うっかり話せないんだという報告があった』(埼玉県警刑事部長・捜査本部長=中勲)
堀兼、上赤坂の内田某は警察に対する供述で、事件前日に自転車で中田栄作方を聞きに訪ねてきた男のことについて、『自転車に乗ってきた男が事件に関係があるのではないかと思いましたが、関わり合いになっては、という素人考えから申し上げませんでした』と述べ、さらに『そのうち入間川四丁目の石川という青年が犯人として捕まったことを知り並々恐ろしくなって誰にも話すまいと決心を前より強くしました。と申しますのは四丁目の人たちは団結して多勢で押しかけることがありますので、万一このことを喋ったために脅かされるようなことがあってはと心配したからです伝々』
*
・・・内田某は、入間川四丁目の青年が犯人と知り並々恐ろしくなったと語っている。ここで並々という表現まで使用し自身が感じた恐怖感(心)を強調しているところに、堀兼の人々が事件に対し口を閉ざした理由が内包されているのである。
この「並々」とは、『普通でない』『格別』『ひとかたならぬ』という意味であり、普通のレベルを超えている状態を指すが、内田某が感じた普通のレベルを超えた恐怖とはいったい何だったのか。
彼が述べた言葉をみてみると、「入間川四丁目」の「石川という青年」が逮捕されたことを知り、並々恐ろしくなったわけであるから、恐ろしくなった原因は「入間川四丁目」か「石川という青年(の逮捕)」のどちらかとなる。そして内田某はこの発言の後半に、はっきりとその怖さの原因を自ら明らかにする。すなわち「四丁目の人たちは団結して多勢で押しかけることがある」と。
捜査本部長=中勲が捜査員から受けた「(堀兼の住民が)昔、むしろ旗を掲げて押しかけてきた事案があり、うっかり話せない」との報告内容も、事件当時の堀兼の人々が頑なに口を閉ざした理由を簡潔に語っている。
以上は捜査過程の一部、ほんのわずかな一面に触れたに過ぎない。この内田某を含む堀兼の人々が当時感じていた心境(及び四丁目の人々がなぜむしろ旗を掲げ押し寄せるか)を分析・理解しようとすると、歴史を大正十一年頃の埼玉水平社結成まで遡り、そこから大正十二年発生の関東大震災朝鮮人虐殺事件(朝鮮人が攻めてくるという噂が流れ、川越市今福や堀兼地区等を含む埼玉県内の広範囲で警戒態勢がとられた)、大正十四年の群馬県世良田村襲撃事件(狭山市柏原・入間川からも部落の人々が結集し群馬へ向かった)などの文献を読みこみ、また、関連する差別捜査・冤罪事件として昭和四十年「飯能署ダイナマイト脅迫事件」、昭和三十四年「羽生工員怪死事件」、昭和三十年「本庄署二重逮捕事件」、昭和三十年「強姦殺人犯人デッチ上げ事件(熊谷署二重逮捕事件)」、昭和二十三年「鴻巣署誤認逮捕事件」、昭和四十九年「児玉署誤認逮捕事件」等なども加え検討しなければ、前述の「むしろ旗の怖さ」を理解することは不可能であろう。