
【狭山事件第二審・判決 】
(出会い地点について)
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所論は、原判決は判示第一の事実中で、被告人が「通称『山の学校』附近まで行ったが、同所から引き返し、再び右荒神様の方へ歩いて来た際、同日午後三時五十分頃、同市入間川一七五〇番地先の右加佐志街道のエックス型十字路において、自転車に乗って通りかかった」被害者に出会った旨認定判示しているが、右認定事実に添う被告人の自白は取調官の不当な誘導による虚偽の自白であって、客観的事実にも反するというのである。
そこで、論点ごとに順次検討する。
(1)まず所論は、捜査官が植木職=奥富栄から、五月一日被告人と東島明との二名が山学校附近にいたという情報を得て、この情報に基づいて被告人を不当に誘導し追及した結果、被告人の出会い地点に関する自白が形成されるに至ったものであるかのようにいうのである。
いかにも、当審で取調べた植木職=奥富栄の五・二七員調書及び六・五検 原調書によれば、奥富は五月一日午後二時ころ、当時建築中であった東中学校の東方の雑木林の中で、被告人と東島明と思われる二人連れの姿を見かけたと供述している。しかし、同じく当審で取調べた奥富栄の六・三〇検 小川陽一調書、捜査主任検事であった証人=原正の当審(第十七回)供述、証人=青木一夫の当審(第七回)供述によれば、奥富は、東中学校の東方の雑木林の中で被告人と東島明と思われる二人連れの姿を見かけたという供述を、被告人と東島明であったかはっきりしないという供述に変えていること、他方、取調官らも当初はこの奥富情報をかなり重視していたが、その後その信用性について疑いを持つに至ったことが認められる。もっとも、証人=東島明は当審(第十八回)において、被告人らと共犯にかかる窃盗(原判示第四の一の事実)等被疑事件で六月四日に逮捕され、その際「本件」の容疑でも取調べを受けたが、その後五月一日のアリバイ関係がはっきりした旨供述しており、これによれば捜査当局は六月四日の段階ではまだ奥富情報をかなり重視していたのではないかと思われる。しかしながら捜査当局としては、遅くとも第二次逮捕の六月十七日ころには、もはや「本件」につき東島明には共犯の容疑がないとみていたものと思われる。
そうだとすれば、被告人の当審(第二十七・三十回)供述中の「(奥富という植木屋さんが)おれと東島が通称"山学校"附近に二人でいるところを見たと警察へ知らせたらしいです。たぶん面通しもされたと思います」とか、「山学校附近に東島とおれといたということで、山学校ということになっちゃったです」という、所論に添うかにみえる供述は、そのままには信用できない。
他方、被告人は当審(第二回)において、「長谷部さんだと思うが、東島がやったというんだね、五月一日に善枝ちゃんをやったというんだね、だけど、俺は知らないから知らないと言ったわけですね。しかし、東島がやったと言っているからね、お前が知らないと言っても、裁判へいってお前がやったことになるとね、だけどね、俺はね、やらないと言ったんだけどもね」と供述して、東島明との共犯関係をはっきり否定しており、また、当審(第二十六回)において、弁護人の質問に対して、被害者との出会い地点を山学校附近の十字路であると言い出したのは、取調官ではなく被告人自身であり、自分で考えてそのように供述したと述べているのである。加えて被告人は、捜査段階でも六・二三員青木調書中で「私はこの朝家を出る時は、仕事に行くと言って出たのです、それで弁当を持って出たので余り早く帰るわけにもゆかず、庚神様(原文ママ)の方へぶらぶら行きました。庚神様は五月一日が毎年御祭りです。この日も御祭りでおもちゃ屋などが出ていて人が五十人くらい出ていたようでした。私は庚神様を通り越してみんなが山学校と呼んでいる夏だけ使う学校がありますが、そっちの方へ向かって行きました」と述べており、その後同趣旨の供述を維持しているのである。
叙上の関係証拠に徴すれば、被告人が取調官の不当な誘導によってやむなく出会い地点の供述をするようになったとは考えられない。
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◯多くの場面で石川被告による自白には目まぐるしい変遷が見られるのだが、なぜこれだけの変遷が生じているのか。これは他の有名な冤罪事件にも共通するのだが、全く身に覚えのないことを捜査側のつくった筋書きに合わせてゆく過程でどうしても起こる問題であり、冤罪事件特有の特徴と言えよう。