アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1319 【判決】⑱

「所論(しょろん)」=論ずる事柄。意見。

「論旨(ろんし)」=議論の趣旨。

                                           *

                    【狭山事件第二審・判決⑱】

                      (地下足袋・足跡について)

                                            *

   所論は、原判決は自白の信憑力を補強するものの(3)として、「五月三日佐野屋付近の畑地から採取された足跡三個は、被告人方から押収された地下足袋中の一足によって印象されたものと認められる」旨説示し、且つ、同事実は「全く自白を離れても認めることのできる事実であり、・・・・・・被告人の自供部分(すべて各犯行の重要部分に当る)を概ね端的且つ強力に裏付けている」ともいっているけれども、被告人の履物の大きさは十文半であって、兄六造の九文七分の地下足袋を借りて履いたことはあるが、きつくて履きにくい、また、被告人の五月二日夜の行動に関する捜査段階での供述と現場足跡が発見されたとされている場所とは一致していない、のみならず、右足跡の採取に当たっては捜査当局の作為が介在していることが窺われ、右の現場足跡が果たして右の地下足袋によって印象されたものかどうかには疑いがあり、原判決挙示の石膏型成足跡三個は捜査当局によって偽造された疑いがある。そればかりでなく、被害者の死体が発見された場所及びスコップが発見された場所付近で犯人のものと推認される別の地下足袋一足とその足跡とが発見された事実があるのに、被告人は、自白をしていた当時から現在まで右事実は全く知らないと供述しているところからすると、少なくとも被告人が被害者の死体を埋めた後スコップを捨てたとの供述部分は虚偽架空である。要するに犯人は別にいるのであって被告人ではないというのである。

   そこでこの点を考えるに、問題は三つある。その一つは、佐野屋付近における現場足跡の採取経過であり、その二は、採取された石膏型成足跡の鑑定の結果であり、そしてその三は、死体発掘現場方面で発見された別の地下足袋一足が存在することである。

   まずその一について考えてみると、航空自衛隊入間基地司令=中村雅朗名義の気象状況について(回答)と題する書面によれば、犯人が佐野屋付近の茶畑へ現われた前日である五月二日の現地の天候は、午後四時五十五分から七時四十五分まで雷雨があったのであるから、右七時四十五分以降司法巡査が現場足跡を採取した翌三日午前六時三十分ころまでの間に、耕作者ないし付近の住民など本件と関係のない者が右場所へ立ち入ることは考えられず、また、仮に前日の午後七時四十五分までに現場へ立ち入った者があったとしても、右の雷雨によって足跡は消失していると推認される。犯人が逃走した三日の午前零時前後に現場へ立ち入る可能性のあった者は、本件の犯人か、犯人が逃走した後、現場付近の捜索に当たった警察官以外にはあり得ないと考えられるところ、証人飯野源治の原審供述によれば、「自分は狭山署の捜査係であるが、刑事課長諏訪部警部の指示により、五月三日午前六時三十分ころから同八時三十分ころまでにかけて長谷部警視に案内されて、犯人のものと思料される足跡のうち鮮明なものを選んで左一個と右二個の計三個を石膏型成足跡として採取した。その場所は佐野屋の東方約四〇米の地点から南へ入る農道を約一三〇米入った右側(西側)の馬鈴薯の畑ですぐ南に茶株があるが、その茶株から二さく目の馬鈴薯の間に西に向かって印象されている二〇歩ないし二五歩のうち、鮮明な、農道に一番近い第一足跡と第二足跡、更に七、八歩くらい入った最も鮮明だと思われる一個の計三個を採取した。足跡は地下足袋によって印象されたもので、前夜七時ころまでに降った豪雨の後にできた足跡であることは判然としており、捜査員の中にはこれと同種の地下足袋ないし職人足袋と称されるものを着用していた者は誰もいなかったから、これらの足跡は、逃走犯人によって印象されたものであると思料された。なお、立会人は畑地の所有者=横山喜世である。石膏の材料を集めに行って持参したのは相勤者の小川事務官である。同石膏型成足跡三個(昭和三八年押第一一五号の五)はそのとき採取したものに相違ない」と答えている。

   これを当審において取調べた五・三司法巡査飯野源治・同小川実共同作成の狭山警察署長あての「現場足跡採取報告書」と対照すると、同報告書には、佐野屋東方一四・八米の地点(この点は、原審で取調べた五・四員関口邦造作成の実況見分調書の添付図面と対照すると、佐野屋東方二七米で茶垣が切れた地点から更に一四・八米の地点というべきである)から南へ入る農道を一三三・七米入った右側(西側)にある狭山市大字堀兼字芳野七八三番地馬鈴薯畑内で、所有者は同市大字堀兼⚫️六一五番地農業横山為一で、立会人は同所同番地の横山喜世である旨、また、右足跡の発見は犯人の逃走方向に向かって警察犬で逃走方向を追跡して遺留足跡を発見した旨記載されていて、大筋において前掲の飯野証言と同趣旨であるといえる。(続く)