◯このところ秋も深まり、酷暑の日々より待ちかねていた、酒と読書とを満喫できる季節となった。そこで、たまには狭山事件を離れ、同じ昭和時代に起きた特異な冤罪事件に触れてみるのも一興かと思い、本日はそれをここへ記すこととした。

本書は、昭和二十二年に福岡で発生した強盗殺人事件を扱ったものであり、重点として書かれているのは、福岡刑務所の教誨師=古川泰龍が、この事件の裁判で死刑判決を下され収監された二名の雪冤のため尽力をつくす経過と末路である。
この犯行過程の裏には、関係した被告人らが、ほぼ事件当日に出会い、且つ偶発的、突発的に発展していったという、想像が不可能な、稀に見る展開が隠されているのだが、それ故に捜査機関は真相に迫ることが出来ず、犯行に加わった七名の中の二人、すなわち「西 武雄」「石井健治郎」をまとめて強盗殺人とし書類送検、起訴後の裁判では死刑判決が下され、これが確定する。
とまあ、簡単に言えばこういう流れであるが、二人の冤罪を訴える教誨師=古川泰龍の行動は壮絶的であり、日本中の弁護士は彼を見習えと興奮するも、ここはひとまず冷静になろう。ところで古川の精力的な雪冤行動に対し、これに共感した大学教授や政治家、あろうことか大臣までもが協力的姿勢を示し始めたのだが、左様に注目をされるようになった古川とって、その活発な活動があらぬ災いを招く一因となろうとは本人は知る由もなかった。
何といっても本書のクライマックスは、その古川の熱い雪冤活動の後半に音もなく、いや静かに雪を踏みしめる音と共に訪れる。
時は昭和三十九年一月二日、なおも雪冤の活動を続けていた古川泰龍一家が住む熊本県玉名市の自宅へ、川村と名乗る一人の男が訪ねてきた。襟元には弁護士バッジが付いていたが、古川とその妻は初対面の男であった。が、なぜか三女の"るり子"だけは男の顔を知っていた。
それは男の顔が写ったポスターを、るり子はよく眺めていたからだ。顔写真の下に書かれた名前が同級生の名前と似ていたことから通学の途中に足を止め眺めていたが、その場所とは交番の掲示板であった。
男の名は西口彰。殺人、強盗、死体遺棄、詐欺、窃盗などの容疑で指名手配中の男で、福岡市を皮切りに前年から犯行を繰り返し、報道などではこの時期、この凶悪犯は現在北海道へ潜伏中などとの噂を書き立てていた。
さて、そうとは知らぬ古川は、東京から訪ねてきたという川村を弁護士として扱い、家へ招き入れる。実はこの時、娘の"るり子"は「あれは西口よ」と古川に耳打ちしているのだが、にわかには信じられない上に、この時期、東京から弁護士が訪ねてくるという予定が現実に組まれていたことが古川の判断を迷わせた。加えて、古川が雪冤活動に乗り出して以来、彼のもとには多くの人々から活動への協力を申し出る連絡等があり、これらも、"るり子"からの忠告を保留するという態度を古川に取らせたのであった。
自宅二階の客間で古川は川村を接待しながらも、やがて"るり子"の耳打ちが気になり、雑談の中、さりげなく探りを入れ、時間をかけ真偽を吟味した末、目の前の男は西口であり、川村とは偽名であることを確信する。
この晩、西口は古川に対し、翌三日はここで過ごし、四日には博多へ向かい冤罪の仕事にとりかかる旨を伝える。すでにこの男の正体を見破っている古川は、平静を装いながら警察への通報のタイミングを窺うが、どうにも男は隙を見せず事態は停滞してゆく。
丸一日、凶悪犯と過ごせば、そこで何が起こるか。二階の部屋から席を外した古川は家族を集め、「男は西口彰に間違いない。今後はそのつもりで動け」と囁き、結束を固める。西口に悟られることを恐れ自宅の電話を使用しての警察への通報は断念し、夜十二時過ぎ、二階にいる西口の就寝を確認後古川は妻と娘の一人を駐在所へ走らせた・・・。
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◯と、ここまで読み、あぁこれはどう考えても古川宅に警察官が駆けつけ、すみやかに一件落着するのだなと胸を撫で下ろしたところ、この辺りから本書のさらなる真のクライマックスが展開するのである。
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古川が書いた犯人に関するメモを持たされた妻と娘=愛子は自宅裏から裏道へと駆け抜け駐在所へ到着。ところが巡査は不在であったことから電話を借り本署へ連絡するが、その対応は極めて腰が引けた、鈍いものであった。
帰宅した妻の話では、本署から「翌朝、出来るだけ早く行くから指紋を取っておいてくれ」「その男と風呂に入り、胸の傷を確認しておいてくれ」と指示されたという。この無責任さに古川は腹を立てながらもこのまま朝まで待てるかと、戻った二人を再度駐在所へ向かわせる。これは西口が名乗った川村弁護士という人物が実在するのかどうか、実在したとして熊本県に向かった事実があるかどうかを電話で確認させるためであり、もちろん今夜中に何らかの手を打たせるよう訴えるためでもあった。
駐在所から戻って来た妻の話では、本署へは連絡したが、電話を受けた警察官は迷惑げであったという。
一家は眠れぬ緊張の夜を過ごし、翌早朝に四人の刑事が到着、古川は屋内へと促すが刑事たちはなぜかそれを拒み、外から張り込むとだけ古川に告げ、付近に散った。
朝七時、古川の妻は二階から降りてきた西口へ露天風呂での入浴を勧めた。こうすれば風呂場で客に扮した刑事によって胸の傷を確認できようとの策であった。西口は妻の提案にすぐ従い露天風呂で入浴をはじめたが、そこには客に扮した二人組の刑事が湯船につかっていた。
犯罪者なりの虫の知らせがあったのかどうか、入浴後、部屋へ戻るなり着替え済ませた西口は、翌日の福岡行きは今日にすると言い、手提鞄を持って古川宅を出た。
二十歩ほど進んだところ、数人の刑事に取り押さえられ西口は逮捕された。
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凶悪犯として警察が全国に指名手配し、公開捜査にまで踏みきり追跡していた西口彰を、古川の三女、"るり子"というわずか十歳の子供が見破ったとして、過熱したマスコミ界は大々的に報道した。このことにより古川泰龍は一躍「時の人」となり、例えば警察庁長官からの感謝電報、民間人初の警察協力賞、自治大臣・国家公安委員長・犯行が起きた各地の県警本部長などからの感謝状が古川とその三女るり子へ贈られる。このことは、かねてから取り組んでいる死刑囚の雪冤運動が全国へ知られることとなり、古川に多くの協力者をもたらした。
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ここで少しだけ話を戻すが、なぜ、凶悪犯=西口彰は古川を訪ねてきたのか。実はこの西口は、かつて福岡刑務所に服役中、冒頭で述べた死刑囚=西 武雄と石井健治郎の雑役係をしていたのである。したがって教誨師の古川の存在も知っていたという西口は、出所後この教誨師を喰い物にしようと接近してきたわけである。
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西口彰のおかげと言っては語弊があるが、この件によって二人の死刑囚の事件は有名になり、戦後初の誤判事件として大々的に注目を集め多くの協力者が現われるも、法の壁は固く閉ざされ再審の兆しはまったく見られないのであった。
そしてその日は突如としてやって来た。昭和五十年六月十七日、法務省は死刑囚=石井健治郎に恩赦を与え死刑の無期執行停止を決定すると同時に、即日もう一人の死刑囚=西 武雄の死刑を執行したのである。
二人は強盗殺人犯として死刑判決を言い渡されていたのだが、古川の聴取や調査によれば、それぞれの主張は次のとおりである。
石井健治郎は、拳銃で二名を殺害したことは認めているが強盗については否認している。
西 武雄は、殺人・強盗ともに否認している。そしてこれらの主張はほぼ真実であると古川は自身が出版した「福岡事件真相究明書」で断言しているのであった。


石井健治郎(昭和五十年) 西 武雄(昭和三十五年頃)
ひと一人殺さなかった西を処刑し、一方で二人の人間を殺しその事実を認めている石井に恩赦を与えた法務省の真意とは一体何だったのであろうか。
なお、西口逮捕劇の翌日、古川は警察から懇願された「逮捕前、刑事たちが室内で張込んでいたことにしてくれ」との申し入れを断っている。

(写真は現地調査中の古川泰龍氏)
また、免田事件、財田川事件等が冤罪ではないかと疑われ浮上して来るきっかけを作ったのは本件である。
これで本日のお話しは終わりである。本書の内容に関して紹介したい部分はまだまだあるが、読後の感想としては、古川泰龍の自宅へ、あろうことか古川が担当していた死刑囚の雑役係であった西口が現われるという展開がとても予測出来ず、若者言葉で言えば正に「マジかよ」である。
西口彰の事件に限って言えば、これは何度か映画化もされ(「復讐するは我にあり」原作=佐木隆三)、衆人の知るところであるが、本書にあるように、西口彰に訪ねられた側の視点で書かれた書は老生としては初見であった。正直言って、未だにその衝撃は余韻として残っているゆえ、この書を安値で拾った己れを褒めつつ寝床に入った。布団をかぶりながら、この世にはまだまだ未読の、冤罪に関する書籍が存在するのであろうなと想像し眠りにつく。
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後日、「古川泰龍」とか、著者である「今井幹雄」、あるいは本書の主人公である「西 武雄」「石井健治郎」をキーワードに執念深くこの案件を洗っていたところ、この事件を詳細に紹介している動画に出会う。一見して広告収入目当てのそれらとは無縁な、武骨で真摯な老生好みのものであったが、その解説者(この人物は本件に関し相当な事情通である)は次のように述べていた。
「この事件に関わった七人のうち、一人だけ無罪放免となっているが、これはその男が法務省の職員の親戚筋にあたるというのが、その理由である」と。