アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1317 【判決】⑯

           

         

                    【狭山事件第二審・判決⑯】

                 (脅迫状及び封筒の筆跡について)

   所論は、原判決は自白の真実性を補強するものの第一に「中田栄作方に届けられた封筒入りの脅迫状一通は明らかに被告人の筆跡になるものであること」を挙げており、筆跡鑑定にほとんど無条件の信頼性をおいていることが明らかであるが、いわゆる従来の鑑定方法によった原判決の掲げる関根政一・吉田一雄・長野勝弘作成の各鑑定書は、鑑定人の主観と勘とを頼りにした客観性・科学性のないものであり特定の文字について「相同性」のみを強調して「相異性」、「稀少性」、「常同性」を無視してなされた信頼度の低いものであり、また、当審で取調べた高村巌作成の鑑定書も同様である、しかも、関根・吉田・長野・高村各鑑定(以下、三鑑定という)は、被検文書及び照合文書の各作成者の表記能力(読み書き能力)に質的差異のあることを無視して、各文書の文章構成、文字の表記能力、仮名の使用方法、漢字の表記、当て字、句読点のつけ方、横書きの習熟の程度などについての比較検討を怠っており、そのため極めて信頼度の低いものである、そして、このことは当審で取調べた戸谷富之、大野晋、磨野久一、綾村勝次作成の各鑑定書によっても明らかである、のみならず、大野、磨野、綾村各鑑定によると、被告人には脅迫状及び封筒に記載されたような文章や文字を記載できる能力はないから、本件脅迫状及び封筒の筆跡は第三者の筆跡とみなければならないというのである。

   そこでまず脅迫文の全文を引用すると、これは横罫の大学ノートを破った紙の半面一杯にボールペンを使って横書きされているが、最初は、「子供の命がほ知かたら4月28日の夜12時に、金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせ、時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。刑札には名知たら小供は死、もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ、もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。くりか江す刑札にはなすな。気んじよの人にもはなすな子供死出死まう。もし金をとりにいツて、ちがう人がいたらそのままかえてきてこどもわころしてヤる。」と書き、その上の欄外に「少時このかみにツツんでこい」と書き加え、これを封筒に入れ、その封筒の宛名は「少時様」と記載されてあったところ、その後当審における鑑定の結果をも総合すると、万年筆又はペンで、「4月28日」を「五月2日」と、「前の門」を「さのヤの門」と書き直し、右欄外「少時」の記載を塗りつぶし、封筒の宛名「少時様」を斜線で消し、その下方に「中田江さく」と書き直したものである。

   そこで考えてみると、いわゆる伝統的筆跡鑑定方法に従った三鑑定は、多分に鑑定人の経験と勘に頼るところがあり、その証明力には自ら限界があることは否定できないが、そのことから直ちに、三鑑定の鑑定方法が非科学的であるということはできない。また伝統的筆跡鑑定方法は、これまでの経験の集積と専門的知識によって裏付けられたものであって、鑑定人の単なる主観に過ぎないものとは言えない。ところで、証人高村巌の当審(第五八・六七回)供述及び同人作成の鑑定書によれば、同人の鑑定でも「相異性」「稀少性」「常同性」について表現に差こそあれ十分斟酌(しんしゃく)し、検討を加えていることが認められる。そして、右関根・吉田鑑定及び長野鑑定と高村鑑定とは照合文書(資料)を異にしているにも関わらず、三鑑定とも本件の脅迫状及び封筒の筆跡が同一人の筆跡、すなわち被告人の筆跡であるという鑑定結果となっていることは注目すべきである。そのうえ、戸谷鑑定にしてみても、結論として「かなりの類似点は見られ、通常の学歴をもつ人の場合には、同一人の筆跡であると判定するのにあるいは充分であるかも知れないという印象を受けるが、本人が学歴低く日常、字を書くことのないグループに属する者であることを考慮するとき、本人の字の稀少性はグループ中では薄れるため、同一人と直ちに判定することには理論的に同意し難いように思う。」等々と説明しつつも、同鑑定人のいわゆる近代的統計学を応用した科学的方法によっても、脅迫状と封筒の筆跡が被告人の筆跡ではないとは結論していないのである。

(続く)