【狭山事件第二審・判決⑥】
(いわゆる別件逮捕・勾留・再逮捕・勾留を含む捜査手続の違法・違憲を主張し、よって捜査段階における被告人の供述調書の証拠能力を否定し、自白の任意性を争い、原判決の審理不尽その他訴訟手続の法令違反を主張する点について)
本被告事件において、最初に窃盗・暴行・恐喝未遂被疑事件で逮捕・勾留が行なわれ、そのうち恐喝未遂以外の被疑事実について公訴が提起され、裁判官が保釈請求を容れて六月十七日に被告人を保釈するや、その前日強盗強姦殺人・死体遺棄を被疑事実として発付されていた逮捕状によってその場で被告人を逮捕・勾留したうえ捜査を進め、「本件」についても公訴が提起された経過については、第一の項において述べたとおりである。
ところで、証拠収集の方法が違法であった場合にそれがどこまで証拠の証拠能力に影響を及ぼすかは、重要且つ困難な問題である。一般的にいうと、収集方法の違法が証拠能力に当然に影響があるものと考えることも、また、何らの影響がないと考えることも、ともに妥当でない。違法な収集の弊害を防止する趣旨をも総合的に考えて個々の場合に解決しなければならない問題である。違法な捜査を抑制するためには、違法収集証拠の証拠能力を否定することが最も手っ取り早い強力な方策であることはもちろんであるが、それだけが唯一の防止方法ではない以上、その限界についてはやはり慎重な考慮が必要なのはもちろんのこと、他の弊害防止手段の実際上の効果の可能性をも併せて考えなければならない。しかし、この問題は、将来に向かっての弊害の防止という考慮だけによって解決されるべきではなく、いかにすれば当該事件の解決が最も妥当であるかということを中心に刑訴法一条の趣旨にのっとり解決すべき問題であると考える。
さて、所論のいう別件逮捕はもともと法律上の概念ではなく、これを一義的に定義することは困難であって、事実の具体的状況を捨象(注:1)して一般抽象的にその適法・違法を論じてみたところでほとんど意味がないと考えられる。
そこで、この事件の事実関係に即して具体的に考察するに、一件記録によれば、被告人に対する五月二十二日付(以下、五・二二ということがある)逮捕状請求書に記載の被疑事実の要旨は、(一)二月十九日の竹内賢に対する暴行、(二)三月七日の高橋良平所有の作業衣一着の窃盗、(三)五月一日の中田栄作に対する金二十万円の身代金の恐喝未遂であり、その疎明資料として、(一)については、竹内賢の被害上申書と同人の供述調書及び目撃者二名の供述調書、(二)については、被害者高橋良平の被害上申書、(三)については、被害者中田栄作の届書と同人の供述調書二通、員作成の実況見分調書二通、中田登美恵の供述調書、被疑者自筆の上申書とその筆跡鑑定書並びに被疑者の行動状況報告書であって、これらを資料として審査した結果、請求通りの被疑事実によって逮捕状が発せられ、これにより五月二十三日午後四時四十五分被告人が逮捕されたことが認められる。そして、これらによると、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があり、しかも明らかに逮捕の必要がないと認められる場合であるとは言えないから、右逮捕は違法(原文ママ・注:2)で、その後の捜査の状況をも考え合わせると、同月二十五日に令状が発付され同日執行された勾留の処分も、刑訴法六十条の要件を充(みた)す適法なものであったと認められる。
なかでも恐喝未遂の被疑事実は、五月一日午後七時三十分ころ被害者中田栄作方の玄関に娘善枝の身分証明書が同封されている脅迫状が差し込まれ、善枝の通学用自転車が邸内に差し置かれてあって、これが間もなく家人によって発見されたのであるが、脅迫状の文面によると、金二十万円を五月二日の夜十二時に指定された佐野屋の門に女の人が持参しろ、警察や近所の者には知らすな、さもないと誘拐した娘を殺すという趣旨のものであり、その後右指定の日時・場所に右金員を喝取する目的で犯人とおぼしい者が現われて善枝の姉中田登美恵と数分間言葉を交わしたのであるが、同人において、登美恵のほかに人がいることに気付いて金員の喝取をあきらめ逃走したという重大事件であること、県警は事犯の重大性に鑑み五月三日狭山市堀兼の現地に特別捜査本部を設けていわゆる公開捜査を開始したこと、詳細は後述するところに譲るが、同日佐野屋の東南約一四〇米に当たる同市大字堀兼字芳野七八⚫️番地所在の横山為一所有の馬鈴薯畑内において、司法巡査飯野源治・同小川実が農業横山喜世立会いのもとに犯人の足跡とおぼしい三個の足跡を石膏で採取し、これを被告人方から五月二十三日に押収した地下足袋一足(当庁昭和四一年押第一八七号の二八の一)と共に即日鑑定に回付したこと、五月三日警察官・消防団員多数によって山狩りを行なったところ、被害者善枝が乗っていた自転車の荷掛用ゴム紐が発見されたこと、翌四日午前十時三十分ころ、農道に埋められていた善枝の死体が発見・発掘されるや、死体の状況等からして、いかにも強盗強姦殺人・死体遺棄・恐喝未遂事件であることを推測させるものがあったので、捜査当局としては、即日死体を解剖して死因が扼殺による窒息死で、姦淫されて死亡するに至ったものであること、膣内の精液から姦淫をした者の血液型がB型であることが判明したこと、死体の足首に巻かれていた木綿細引紐の結び目にビニール風呂敷の隅の部分の断片が残っていたこと、ビニール風呂敷の他の部分は死体を発掘した農道から二十米余り離れたさつまいも貯蔵穴(以下これを芋穴という)から発見されたこと、この風呂敷は中田登美恵によって被害者善枝の所持品であることが判明したこと、死体は手拭いで両手を後ろ手に縛られ、タオルで目隠しされていたこと、犯人は音声その他諸般の状況からして土地勘のある地元の者であると判断されたところから、捜査当局は地元を中心とした聞込み捜査を実施し、右手拭い・タオルの出所その他証拠の発見に努める過程において、五月六日ころ地元の養豚業者である石田一義経営の豚舎内から飼料攪拌用のスコップ一丁が事件発見当日の五月一日の夕方から翌二日の朝までの間に盗難にあったことが判明する一方、その後間もない五月十一日にはスコップが被害者の死体埋没箇所に程近い麦畑に遺留されているのが発見されたこと、しかも右豚舎には豚の盗難防止のため番犬がいて、この犬が吠えれば少し離れた石田一義方居宅からも数匹の犬が駆けつけてくるようになっていることから、犯人は石田一義方に出入りの者であると推認されたこと、言い換えると、右豚舎内に置いてある右スコップを夜間周囲の者に察知されないで持ち出すことが出来るのは、石田方の家族かその使用人ないしは元使用人であった者、その他石田方に出入りの業者らに限られると推認されたので、それらの者約二十数名について、事件発見時の行動状況を調査し、上申書と唾液とを任意に提供させて筆跡と血液型とを検査する等、重点的に捜査を進めた結果、被告人の事件当時のアリバイがはっきりしないうえに、脅迫状の筆跡が被告人の筆跡と類似もしくは同一であると認められたこと等が主な理由となって、石田方の元使用人である被告人が有力な容疑者であるとして捜査線上に浮かび前記第一次逮捕(いわゆる「別件」逮捕)、勾留が行なわれた経過であることが認められる。
(続く)
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注:1「捨象(しゃしょう)」=物事の本質を捉えるために、その特徴の中から重要でない部分を捨て去る(切り捨てる)こと。
注:2 この部分は「違法」ではなく「適法」が正解ではなかろうか。
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◯裁判の判決文には装飾というものが一切なく、大変冷えびえとした寒々しさが感じられる文書である。もしここで、例えば石田養豚場から盗まれたものとされるスコップが麦畑の根元から発見された模様を、『狭山の農村地帯に豊かに広がる新緑の、その上をモンシロチョウやイトトンボが初々しく舞い、爽やかな空気が漂いだした五月の十一日、黄金色もまぶしく燦然と輝く市内◯◯番地の麦畑において、幾年にもわたり過酷な使用に耐え続けたとおぼしきその飴色に変色した樫の柄を持ち、やや歪んだ鉄製の刃先を見るに、その姿からはもはや土木道具としての風格すら感ぜられる全長◯◯センチの剣刃スコップが・・・』と、老生であれば表現したいところであるが、こんな調書を提出された上司はどのような反応を見せるのであろうか。 「いやぁ、風流だねぇキミ。この文体であれば公判は維持できるよ」「こういう調書を待っていたんだよ、チミ。芥川賞受賞は間違いないね」「貴様、惜しいな、もうちょっと季語を取り入れるとこの調書は臨場感が増すのだよ」などの反応があれば、この日本もまだまだ捨てたものじゃないと思うのだが・・・。
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そんな、どうでもいいことを考えながら先日購入した古書『片隅の迷路』(=開高健)を読み始めたのだが、ネットの情報によると、どうやら本書は映画化されていることが判明する。

『証人の椅子』(昭和四十年公開)。
徳島ラジオ商殺し事件が昭和二十八年に発生、これを基に開高健が昭和三十七年『片隅の迷路』を発表、それを原作とし三年後の昭和四十年に映画化されたという流れである。この当時は、こういった冤罪が絡む内容を映画化する場合、無名の俳優を出演させお茶を濁していたのだろうと勝手に思いながら見ていたが、なんと大滝秀治が出演しており度肝を抜かれる。さらにその後、加藤喜(映画『たんぽぽ』で、十分研究して蓄えたラーメンの知識を語りながらラーメンを食べる老人役の俳優)や、

下條正巳(映画『八つ墓村』で、法事の席で辰弥の目の前で毒殺される老人役の俳優)も出演しており、

彼らの登場する場面ではなぜかそこに重厚な雰囲気が漂い、やはり只者ではない名役者達であることが窺われる。また、この映画のあるワンシーンが記憶に残り、非常に悩む。



問題は画像中央の人物である。この俳優は志村喬(黒澤映画には欠かせぬ主役級の名優)ではないかと思えるのである。理由として、まずは特徴的なその風体にあり、さらにこのシーンはほんのわずかな、数秒で終わるカットなのだが、この間、煙草を吸い終えハンカチで額の汗を拭うという演技をこなしている。限られた時間内にこのような細かい芸を映像に織り込める俳優は珍しく、しかもこの演技は、今彼らの居る空間が退屈であり蒸し暑い状況であることを一発で表現するという説得力を持っている。しかし調べてみると記録上、志村喬は本作品に出演していないことが明らかになる。
なお今回転載した画像は、たった三枚にも関わらず、両側にいる女優と中央の男性俳優の演技力を対比し、視認できる格好の材料となってしまったが、さらに深読みすれば、静と動とをこの三人が表現しているとも言え、たかが映画とは言え、なかなか侮(あなど)れないものである。