アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1300 【判決】①と量刑不当①

     ◯昭和四十九年十月三十一日、狭山事件第二審の判決が東京高等裁判所で言い渡された。裁判長裁判官は寺尾正二。これより記載する判決文は『狭山差別裁判 第七集』(部落解放同盟中央本部編)より引用させていただいた。

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   『実戦  日本語の作文技術』の著者=本多勝一氏はその著書の中で、裁判の判決文の作文力のなさを徹底的に分析し、「どのようにすればこのような絶望的文章が書けるのであろうか」と言い放ったが、そういった観点からもこの判決を見てみたい。

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                        【狭山事件第二審・判決①】

   本籍及び住居  埼玉県狭山市入間川二九〇八の一

   鳶職手伝い 一夫こと石川一雄  

   昭和十四年一月十四日生

   右の者に対する強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄,・恐喝未遂・窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領被告事件について、昭和三十九年三月控訴日浦和地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から適法な控訴の申立があったので、当裁判所は、次のとおり判決をする。

                                          主文

   原判決を破棄する。

   被告を無期懲役に処する。

   押収の身分証明書一通、万年筆一本及び腕時計一個(昭和四一年押第一八七号の二、四二及び六一)は、いずれも被害者中田善枝の相続人に還付する。

                                          理由

はじめに

   本件控訴の趣意は、弁護人=中田直人、同=石田享及び同=橋本紀徳が連名で提出した控訴趣意書(ただし、「第六、量刑不当」の部分は、昭和四十八年十一月二十七日弁論を更新するに当たり、これを陳述しないと述べた。)のとおりであり、これに対する答弁は、昭和三十九年九月十日の当審第一回公判期日に、検察官から、論旨は理由がないと陳述し、同年十二月二十六日検察官=吉川正次名義の右答弁を補充する書面が提出されているので、いずれもこれを引用する。

   また、右第一回公判期日に弁護人から右控訴趣意書に基づいて弁論があった後、被告人から特に発言を求め、第一審においては訴因事実をすべて認めてきたのを翻して、「お手数をかけて申し訳ないが、私は善枝さんを殺してはいない。このことは弁護士にも話していない。」と述べたことを転機として、控訴審の審理は、控訴趣意の本来の内容を大きくはみ出し、多岐にわたる事項について詳細な主張がなされ、そのため事実の取調べが長期間にわたって行なわれるという異常な様相を現出し、その間数次にわたり裁判官が更迭したこともあって、弁護人から、昭和四十五年四月三十日付更新手続きにおける証拠に関する意見、昭和四十七年七月二十七日付証拠調請求についての意見陳述及び昭和四十八年十二月八日付更新に当たっての弁論要旨等の意見陳述がなされたのであるが、これらは当審における事実の取調べの結果を織り込んだ新たな主張を含むものであるから、本来の控訴趣意書として取り扱うべきものとはいえないけれども、要するに、本来の控訴趣意の内容を補充し敷えん(注:1)とする性質をもっていると考えられる。そして、これらに対応して検察官からも、昭和四十五年六月十七日付の事実取調請求に対する意見書や、同四十九年二月七日付の意見書に基づいて意見の陳述があり、当裁判所としてみても、事案の重大性にかんがみ、自らも控訴趣意書に含まれない事項についてまで審理を進めてきたという現実を自ら否定するわけにはいかない筋合であるから、本来の控訴趣意書の内容をはみ出す部分についても事実の取調べをした結果を参酌(注:2)して、順次判断を加えることとする。

   そこで、論旨を論理的順序に整理したうえで判断をしていくことにするが、それに先立ち、本被告事件における原審及び当審における審理経過の概要(捜査の経過を含む。)に触れておくことが、便宜であろうと思われる。

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   (判決はまだ続くのだが、判決文中にある"弁護団による量刑不当の意見"とは何だったかを確認するため、これを先に引用してゆく)

注:1「敷えん(ふえん=敷衍)」(文章、談話などに)趣旨や意味を押し広げて詳しく説明すること。

注:2「参酌(さんしゃく)」他と比べ合わせて参考にすること。

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   ◯弁護団が陳述しない旨を表明した「第六、量刑不当」とは以下のとおり。(昭和四十八年十一月)

                                   量刑不当

 一、はじめに

   仮に、原判決のとおり、被告人の罪となるべき事実が認められたとしても、被告人に対して死刑の判決は情状の認定を誤り不当に重い刑を科すものである。

   云うまでもなく、死刑の判決は、現実に一個の生命をうばうところの極刑である。いかなる極悪犯人であっても、その生命は尊重されるべきであって、みだりにうばってよいものではない。死刑の判決が云い渡される以上、その審理は公平、慎重になされるばかりでなく、被告人の性格、年令、経歴、境遇、犯罪の動機、犯行後の状況等諸般の事情が明らかにされること、つまり、被告人の全人格が明らかにされることが必要である。

   しかしながら原判決は、余すところなく被告人の罪となるべき事実を明らかにしたものであろうか。被告人の全人格を明らかにする証拠は充分に調べ尽くされたものであろうか。果たして、公平慎重な審理を行なったものであろうか。残念ながら、弁護人は、前記でも触れられたとおり右のいくつかの疑問に肯定的な答えを出すことはできない。

   本件は、事件自体の特異性とあいまって原判決も述べているように、「あたかも東京都内に発生した、いわゆる吉展ちゃん事件が世上に騒がれていた最中に行なわれたことにより」報道機関をはじめ、世人に強い関心を呼びおこし、また、捜査官の捜査段階における不手際(張込みの失敗等)や、不法不当な別件逮捕勾留、再逮捕等により、広く抗議の世論を沸き上がらせた世間注目の事件であった。

   そのためかどうかはっきりしないが、原審裁判所は明らかに審理を急ぎすぎた。原審裁判所が、世間の一時的興奮に感染し、一部世間の観心を買うために、審理を急ぎ必要な証拠も調べなかったのである、というのは弁護人の単なる思いすごしであろうか。迅速な裁判は、被告人の望むところである。しかしまた、慎重な審理の行なわれることも右以上に被告人の熱望するところである。当裁判所においては、以下に述べる控訴趣意書を充分に御理解の上、公平にして慎重な審理が行なわれることを望むものである。

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   ◯弁護団の意見は予想以上に長文であり、この『量刑不当』については、今回を含め三回に分けて全文を引用したい。それにしても老生の引用の仕方に問題があるのか、さっそくだが分かりづらい引用となりつつある。

   ところで『控訴』とは、第一審の判決に対する不服の申立てを上級裁判所に対してすることであり、『控訴趣意書』は第一審判決に不服がある場合に、控訴申立人が控訴裁判所(高等裁判所)に提出する書類で、控訴理由を具体的に記載したものである。裁判官はこれに基づいて審理を進めるため、第一審判決の、どの点が誤りであるかを説得的に示すことが重要となる。

   今、引用し始めた、「第六、量刑不当」はこの控訴趣意書に含まれているのだが、これを読み進めると、弁護団は第一審の判決直後は、被告人の被疑事実は争わず、量刑を軽くしようという戦法を選択しているように思われるのだが、どうであろうか。

   そしてその後、捜査機関による作為に満ちあふれた捜査手法や、証拠類の捏造の疑いを目にし、そこを突いてゆけば冤罪を証明することは可能と判断、この『量刑不当』の主張は不要であると取り下げたのではないだろうか・・・。

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   写真は、先日に所沢市で開催された『彩の国 所沢古本まつり』で購入した戦利品の一つである。

   この古本まつりは、所沢駅前の「くすのきホール」の八階をメイン会場とする古本市であるが、その古本の一部は、一階のホール入口前に並べられたワゴンや、入口を入ったロビーに設けられたワゴン群にも並べられている。この一階のエリアはまあまあ安値ゾーンではあるのだが、思いのほか侮(あなど)れず、このエリアからは何度も良書を掘り当てている。したがってこの古本まつりを訪れた際は、まずはホール玄関前のワゴンをチェックし、その後一階ロビーに展開されているワゴンを精査するという段取りが自然と老生には課されてしまっている。あっ、こんな極秘情報を明らかにしてしまってはセドリどもが殺到するではないかと思ったが、彼等と老生とは守備範囲がまったく異なるゆえ、その心配は無用である。なお、この日購入した古本の中で最大の出費は、五百円で購入した前述の『死をみつめて』であったが、古本屋サイト「日本の古本屋」で検索すると、三千六百八十円の値が付けられていた・・・。

   目次を見ると、おおっ、狭山事件も載っているではないか!・・・老生の読書傾向が『事件・犯罪』のみに絞られているという、ある意味において病的なこだわりを持つゆえ、本書と出会うことができたわけであった。  ここでさらに無駄話をするが、本書の巻末の扉隅には値札を剥がされている痕跡が認められ、そこには値札が貼られる以前、同所へ鉛筆書きで書かれたと思われる値段の記載が確認できるのである。

(老生による鑑定写真)

   この文字は4000と書かれてはいないだろうか。だとすると、「日本の古本屋」という古本サイトでの三千六百八十円という値付けとかなり近接しており、この古本の値段はその辺りが相場であると言えよう。まぁ今回、この古本を購入した理由は、そのような転売目的とは真逆の理由であり、「これは読みたい!」と直感したことでの結果であった。古本に対するこの感覚はこれからも研ぎ澄ましていきたいものだ。

   夜半、コオロギや秋虫が泣きはじめ、読書には最適な時期に突入していることを感じながら床につく。