
◯引用中の調書だが、よく見ると番号八が抜けていた。番号七(写真右上端)と番号九(写真左上端)の間にあるべき"八"がない。ふむ、こういった大事件の裁判記録にもミスがあるものなのだなと感じた。内容的には前回からの続きと認められるので問題はなさそうだ。
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【狭山事件公判調書第二審4248-29丁〜】
『意見書』
東京高等検察庁 検事 大槻一雄
昭和四十九年二月七日
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九 『さらに弁護人は、仮りに、出会い地点が被告人の捜査段階における供述どおりであるとしても、被告人が当時供述していたような状況のもとに、被害者=善枝を本件強盗強姦殺人の犯行現場である四本杉の処まで同道させることができるとは到底考えられないので、その供述には信用性がないと主張する。しかしながら、被告人が司法警察員および検察官に供述したような状況のもとに、被害者=善枝を出会い地点から右四本杉の付近まで連行することは当時の具体的状況のもとでは十分首肯(注:1)できるものと思料する。
被告人は、司法警察員並びに検察官に対する供述調書において、被告人と被害者=善枝は、当時面識のない間柄であったこと、被告人が出会い地点で被害者の乗っていた自転車の後部荷台を押さえて停止させたうえ、「用があるから降りろ」と申し向けて同女を降車させ、さらに同女に対し、「こっちへ来い、直ぐ帰すから」と云ったところ、同女は被告人に逆らうこともなく、先に立って自転車を転して歩き、被告人がその後からついて行った。途中同女が「何すんの」と何回か云ったので、被告人はその都度「用があるんだ、直ぐ帰すから来い」と云い、さらに「誰か来るといけないから急げ」と云ったところ、同女は被告人の云うとおり歩いて行き、山へ入る少し手前で被告人が同女から自転車を受け取ったこと、被害者はその間、声を出して騒いだり暴れたりしなかったこと、また、被告人もその間、被害者に対して暴行を加えたり脅迫したことがなかったことなどを供述している。一方、関係証拠によれば、被害者=善枝はスポーツが好きで体格もよく、明朗快活な性格の持ち主で、学業成績も優秀であり、人物もしっかりしていて、見知らぬ人が道で誘っても容易く付いて行くような女性ではなかったことも窺われる』(続く)
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・・・「しかしながら」と、大槻一雄検事の意見陳述は続いてゆく。続きは次回に引用する。
注:1「首肯(しゅこう)」=うなづくこと。もっともだと納得し認めること。
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◯石川被告が事件に関係しているのではないかという疑いを捜査機関が抱いた端緒の一つに、植木職人=奥富栄の証言が存在する。
奥富栄は石川被告と東島明とは親しいほどではないが面識はあり、事件前の昭和三十八年三月十日、所沢市下富の農業=野村スイ方へ手伝い仕事を紹介した事実が確認されている。
昭和三十八年五月四日、捜査員は奥富栄に聞込みを行なうが、これはさらに六日及び九日と立て続けに聴取を重ねている。この中で奥富は「五月一日に死体発見現場の近くで犯人らしい二人連れを見た」とほのめかしており、捜査員はこの証言が直接本件に結びつく可能性がある話として強い関心を示し、このために繰り返し奥富へ聞込みを行なったのである。
奥富栄が捜査員に対し語った二つの事実、すなわち所沢の農業=野村スイ方へ農作業の仕事斡旋の話、もう一つは五月一日に目撃した二人連れの話は、それぞれ全く接点のない形で語られた。
ところが捜査機関は、奥富が話した全く無関係な二つの事柄を結びつけた形で解釈し、五月九日頃「死体発見現場近くで見た二人は石川と東島ではなかったか」と奥富に問ただしている。つまり、この質問は奥富が五月一日に死体発見現場付近で二人連れを見たという証言が捜査員の意識に反映されたものであることがわかる。
五月十七日の小川検事作成の奥富栄=供述調書には「五月十七日頃・・・・・・警察の人が私が石川と東島を見たという意味の事を調書に書いた」とあり、これはつまり奥富が「石川・東島両氏を五月一日、死体発見現場付近で見たと供述」とされる結果となる。
ところが五月二十七日の奥富=供述調書を見ると、やや食い違った内容となり、「私は五月十七・八日の頃、刑事さんに五月一日午後二時頃出合った二人連れの男の話を致しました。しかし、この二人は知らない男だと言っておいたのです」と供述する。
六月五日、原正=検事の取調べに対して、奥富はつぎのように供述する。「(五月一日)二人の男が立って、私の方に顔を向けているのを見ました。その途端に(中略)石川一雄と東島明であることが判った」「細かい点は記憶しませんが、石川は白っぽいようなレインコートを着、白っぽいような帽子を頭に軽く被って、額の髪の毛がよく見えるくらい帽子をあみだに被っておりました。履物は短靴と思いましたが、あるいはサンダルかも知れません。東島は地下足袋で作業服でした」
六月三十日、奥富は小川検事に対して、「私が見たのは二人の男がつつじを取っていたように思われたという事だけで、この二人がどこの誰であったか、私には分からないのです」と述べ、二人が石川・東島両氏だという五月十七日以降の供述を全面的に否定する。
なぜ、このような嘘の供述を行なったかについて奥富は「(目撃した石川・東島に対し)絶対間違いないとは言えないが、いくらか似ているという意味のことを話したら、警察の人が、私が石川と東島を見たという意味のことを書いた」と述べている。さらに奥富はこの供述の背景には六月五日の原正=検事の取調べで、「原検事さんがこの調書(警察官作成の石川・東島を見かけたとある調書)を見ながら聞いたので、本当は石川か東島かどうか分からなかったのですが、分からなかったと言えなくなってしまい」服装まで触れた、まことしやかな供述を行なったという。
結果的にこの奥富証言は取り消されてゆくのだが、実はこの時期に石川被告が三人犯行説から単独犯行へと供述を変更していることとそれは連動しており、石川被告と共に東島が目撃されていては単独犯行説に不都合が生じるため、捜査機関は奥富証言は取り上げないという処置をとったと思われる。
まったくもってこの狭山事件は、ひと筋縄では理解出来ぬほど複雑に疑惑が絡み合っている。狭山事件再審弁護団はどうこの難問題に立ち向かっていくのか、刮目して待とうではないか。
・・・この大槻検事意見陳述が行なわれていた一九七四年(昭和四十九年二月)、公正裁判要請署名数は一九一万八九六九人であり、そこには昭和時代の、熱い人々の良心が垣間見れる。