【狭山事件公判調書第二審4241丁〜】
まとめ
捜査を批判し、無罪の判決を
弁護人=中田直人
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・・・(四)の続き
宇津弁護人は、「本脅迫状はボールペンで書かれたものであり、一部訂正箇所はペンまたは万年筆を使用したものである」と断定し、「封筒に記載された文字の筆跡を弱拡大で観察するに万年筆を使用した公算大なり」という秋谷七郎鑑定書は、物自体が自白を完全に裏切ったことを明らかにした。さらに、三木敏行・大沢利昭鑑定書が、封筒の糊付けに関して従来疑問としてきたところ、つまり市販の封筒にあらかじめつけられている糊以外の糊が封緘に用いられたという可能性をいっそう大きなものとしたことに触れた。
足跡の問題については、城口弁護人が、自らの克明な調査の上に立って、関根政一・岸田政司鑑定書が同一足跡と鑑定した根拠に、重大な疑問を新たに提起した。それは、植木弁護人がかつて指摘した「現場足跡は偽造された」とする疑問をいっそう拡大し、合理的な疑いを補充し、さらに鋭く追及したものである。
山上、福地弁護人は、ビニール風呂敷をめぐる自白の混乱、自白と客観的事実との食い違いを明らかにし、とくに、ビニール風呂敷を何のために使ったのか、なぜ現在みられるように切れたのか、ビニール風呂敷と木綿細引紐との結び目は何を語るのかなどの問題を解明する、新しい科学的視点を提供し、自白の虚偽がこの点からもいっそう明白となるし、これらの点こそ被告人が犯人でないことを明証(注:1)していると強調した。
藤田弁護人は、弁護団の依頼によって作成された和歌森太郎・上田正昭鑑定書、八幡敏雄鑑定書をも引用し、死体を埋めた場所とその付近から発見された玉石、棍棒の問題や、死体を埋めた穴の「残土」の問題に触れ、これらが示す事実は、自白と遠くかけ離れていることを明らかにした。
自白が客観的事実と、かくも明白に食い違い、その虚偽が科学的にも証明されているとき、このような自白がなぜ生まれたのか。自白そのものをめぐる諸問題の解明もまた進んだ。
捜査官らは、被告人を犯人に陥れるべく、別件逮捕、勾留をはじめ、様々な強制、誘導、術作を弄して、自己の認識を基礎にしながら、虚偽の自白を作り上げていった。これらの点は、いくつかのエピソードさえ生みながら、客観的諸問題の解明と相まって、審理が進むにつれてますます明らかとされてきた。三上、阿形、稲村、石田の各弁護人は、被告人が現在の法廷でいかに真実を語っているか、そのことが捜査官らの証言によってさえ裏づけられているという角度からとくに強調し、自白の問題に深い分析を試みた。
青木弁護人は、死刑という重大な結果を前にしながら、被告人が一審で自白を維持し続けたことの持つ意味とその究明が、本件において極めて重要であることを部落問題との関わりで強調した。
当審審理の第二段階が明らかにした事実と被告人の無実を示して行く上での成果はさらに多い。
各弁護人が触れなかった問題を一つだけ取り上げておこう。脅迫状と封筒に書かれていた「少時様」について、重要な事実が明らかにされた点である。
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なぜ「少時」という宛名を書いたのか、自白自体によってもさっぱり説明されていない。「りぼんちゃん(雑誌=りぼん)」の中にあった人の名字かも知れないと言ってみたり、「たくさんの苗字の中で、私が家を知っている苗字の中から、何ということもなしに少時という苗字を選び出し書いた」とも言っている。被告人を取調べた原正検事も、「少時」に宛てた理由はついに分からなかったと述べている。不思議なことに、自白の他の部分では、自分の知っている「しょうじ」のことを述べているが、その「しょうじ」はどうやら名字でなく名前のようである。取調官が被告人に「しょうじ」のことを聞き、それに答えた内容である。ところが、何となしに書いたと述べる自白部分では、「少時」は当然のように名字であることが前提とされている。この使い分けは、取調官の何らかの認識を反映したとみられないであろうか。
詳細に論証する時間的余裕がないので、他の機会を待つが、被告人は「しょうじ」を名前としてしか意識していないのに、取調官は名字である「しょうじ」を自白の中で語らせようとしたのであり、それは、あれこれの「しょうじ」ではなく、「少時」という名前を持つ人物が実在していることを知っていたからである、という疑問である。
被告人を逮捕した当の狭山警察署が管轄する入間市に、「長嶋少時」という人物が実在した。しかもこの人は、狭山警察署から銃砲所持許可証を事件の起こった年に貰っているのである。当時三歳の女児がいたという。弁護団は、調査の結果この事実を確認し、第四十一回公判における狭山警察署長(当時)竹内武雄に対する証人尋問で、初めてこの事実を公けにした。
脅迫状の封筒に書かれた「少時様」が名宛人であり、珍しい名前にせよ実在する以上、長嶋少時こそ犯人が狙った人物であるとみるのは自然である。被告人が長嶋少時を全く知らなかったことは、全記録に徴して明白である。竹内(第四十一回公判)、将田(第五十回公判)、諏訪部(第五十七回公判)らの証言によっても、警察は当初「少時様」を「狙われた家」として捜査したのであり、「交番ならどこの誰かみな知っている」はずの警察が、「少時」という誠に珍しい名前を持ち、しかも銃砲の所持について狭山警察署防犯係に登録されていた人物の実在を知らなかったとは到底考えられない。
真犯人は少なくとも長嶋少時を何らかの形で知っていた者であり、被告人ではあり得ない。捜査当局は、長嶋少時について当然捜査したが、そこからの追及を怠ったか、故意に打ち切って、被告人を犯人に仕立てたのである。「しょうじ」を巡る自白の不思議が、この疑いを強く裏づけている。(次回、五へ進む)
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注:1「明証(めいしょう)」=明らかな証拠。はっきりとした証拠。
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「脅迫状」

① 宇津弁護人は、「本脅迫状はボールペンで書かれたものであり、一部訂正箇所はペンまたは万年筆を使用したものである」と断定した。




② ところでよく見ると、封筒に書かれた「少時様」という文字と脅迫状の文字は似ており、対して「少時様」の下部に書かれた「中田江さく」という文字と脅迫状の訂正箇所の文字(写真①)がどうも似ている。つまりこの脅迫状は本文の執筆者とは別に、宛名と日付、場所を訂正した者が存在すると考えられないだろうか。②の上の写真は、宛名の「少時様」という表記に「時」という文字が含まれているので、脅迫状本文から同じ「時」文字を拾い、その写真を並べてみた。いわゆる筆勢という視点でこの「時」文字を見ると、まぁ老生の劣った視力によればであるが、同一人物の筆記と言えよう。


こちらの写真は、封筒と脅迫状の「訂正」された文字を写したもの。左側の写真は「少時様」という宛名から「中田江さく」という宛名へ訂正されたもの。右側の写真は、身代金の受渡しの日付と場所が訂正されたもの。両者の「さ」という文字に注目されたい。字の角度や全体のバランスが非常に類似しているようであり、少なくとも脅迫状本文の執筆者とは字体が異なり、筆勢も異なる。
・・・・柄にもなく突如、脅迫状の分析など試みてしまったが、佐野屋での身代金受渡し当夜、それを喝取すべく現われた者は当初二名ではないかと捜査当局はみていた(注:2)。単独犯ではなく複数犯という見方である。前述したように、この脅迫状を犯人Aが執筆し、その後の訂正を犯人Bが行なったと考えれば、複数犯説を補強する材料になるのだが。
③「少時様」という宛名が、果たして名字であるか名前であるかという問題であるが、これは中々その判断を下すのは難儀である。前述した「少時様」の執筆者と「中田江さく」と訂正した執筆者は別人であると考える老生は、その宛名の表記にはそれぞれの認識の違いが表われているとしか言えない。
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注:2 この点については、次に引用する法廷での問答を見れば、それは明らかである。
弁護人=「五月二日の晩に佐野屋へ行ったのは、あなた一人ではないだろうというようなことを言われたことがありますか」
被告人=「あります」
弁護人=「どういうようなことを言われたのですか」
被告人=「佐野屋のところで話をしているときに、もう一人いただろう。石を投げた人もいる。もう一人の人が警察官が張っているほうへ石を投げただろうと言われたから、おれは知らないと言ったら、そんなことはないと言われました。それから刀を持っていたかということも言われました。佐野屋のところに、茶の木を切った跡があったらしく、それを言われましたが、持ってないと言いました。それから川越の方へ逃げたと地図を示されました」(昭和四十三年九月十七日の第二審第二十六回公判、弁護人の問いに対する石川一雄供述より)
茶の木を切ったところ、すなわち、犯人が潜んでいた場所には一人以上の足跡があり、この足跡はそれぞれ不老川方向と川越方面の二方向へと残されていたというが・・・・。