
【狭山事件公判調書第二審4220丁〜】
『出会地点』自白の生成と虚偽架空
弁護人=石田 享
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(三 捜査当局の重なる困惑の続き)
捜査当局は明らかに、一つ荒神様寄りの十字路でも不都合と考えたに違いない。
翻(ひるがえ)って考えてみれば、もともと植木職奥富の供述も、「出会い地点」附近に住む者や、附近の田畑の耕作者の状況からみて、大きい疑念を挟まなければならないはずの内容であったと言わなければならず、現に奥富供述についての裏付け捜査も断定的なものは出なかったし、結局、解明されなかったというのである(将田政二:当審十三回証言)。
真相は解明されなかったどころか、すでに見たように附近住民ないし横山ハル、横田権太郎証言のように反対証拠が数多く存在し、それを知る捜査当局にとって、山学校附近に被告が登場することはどう見ても不都合であったのである。まして、今や単独犯自白の段階となり、信用し続けてきた奥富供述は捜査当局自身の手で排斥しなければならない時点に立ち至っていた。捜査当局にとっては、「出会い地点」を山学校周辺にすべき根拠が消滅しただけでなく、全く別異の場所に変更させるべき必要が生じていたのである。
かくして被告人の右当審二十六回供述で触れているように、「狭山精密」など他の場所で出会ったことにさせるべく長谷部ら取調官が被告人に要求したことも当然であったと言えよう。特に他方、被害者の通学路は「自宅から権現橋、佐野屋の脇、薬研坂を通り、狭山精密前さらに入間川四丁目を通って学校に行く道順を往復する」(一審:検察官の冒頭陳述書第一、一、{二})コースであったことは初動捜査において捜査当局が熟知していた事実でもあった。
ところが被告人は捜査当局の思惑とは逆に、山学校の一つ荒神様寄りの十字路で出会った旨頑張り通した(前掲)。被告人にとっては、自己の関知しない本件犯行についての「出会い地点」供述の変更は、さらに新しい考案を要求されることにつながるだけであり、その心労の煩わしさを嫌ったのである(被告人:当審二十六回供述等)。取調官の思惑はこの時も外れた。「出会い地点」自白の根本的変更は出来ず、困惑は残った。
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(四) 若干の混乱とその「収拾」
こうした取調官の困惑は、さらに十メートルくらい「ちょっと」荒神様寄りに「出会い地点」を移動するという内容として自白調書に反映された(六月二十九日付:青木調書)。全く別の他の場所に「出会い地点」を移すことが出来ないまま長谷部、青木ら取調官が考えた次善策に他ならなかった。それは取調官の焦りでもあった。何故ならば「出会い地点」がさらに「ちょっと」荒神様寄りになったくらいでは、これまでみた強力な反対証拠から避難することは出来なかったからである。この「ちょっと」荒神様寄りに「出会い地点」を動かすことは原検事にとってさすがに容認出来ないものであった。七月一日付:原調書七項で再び「山学校の手前の四辻の付近」として処理し、結局この線で落ち着かせなければならなかった。
なお原検事は、すでに「近所に人がいなかったから」(六月二十七日付:青木調書)、「その辺りには人がいなかったし」(六月二十九日付:青木調書)というようにしてあることをそのまま引き継ぐこととし、「附近は畑や山で人通りもなく淋しい所」(七月一日付:原調書)として反対証拠にベールをかぶせ、「出会い地点」問題の収拾を計ったのである。
このように「出会い地点」をめぐるちょっとした動きも、明らかに取調官の認識、思惑の産物であったし、それ以外の何物でもなかった。
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四、結び
こうして、「出会い地点」自白そのものの生成と変化は、すべて取調官の認識したところに基づいて生じた幻であり、「出会い地点」自白につき「或る程度の幅があるのではないかというような感じ」(河本仁之当審四十回証言)という表現をはるかに超えて、その生い立ちからの虚偽架空の根源を浮き彫りにしているのである。
言うまでもなく「出会い地点」自白は全自白の始点である。「出会い」がなければ犯行もあり得ない。その幻の「出会い地点」自白が、「山学校」という場所附近に生まれ、その附近を小刻みに移動しながら結局、辻一つ移動しただけで、終始「山学校」附近を彷徨った理由は今やいずれも明白である。
被告人の無実は「出会い地点」自白をみても明らかというべきである。検察官は迅速な審理のためにも植木職奥富の供述調書や捜査報告書類、山学校やその附近の居住者、耕作者等からの供述調書や捜査報告書類すべての未開示証拠を速やかに開示すべきである。
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◯以上で、弁護人= 石田享による『出会地点』自白の生成と虚偽架空の引用を終える。