アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1386

狭山事件公判調書第二審4207丁〜】

             『出会地点』自白の生成と虚偽架空

                                                                  弁護人=石田  享

                                         (目次) 

一、はじめに

二、「山学校附近で被害者と出会った」旨の自白は取調官の認識、想定に基づく。

   (一)、「出会地点」自白のはじまり

   (二)、取調官の認識、想定=奥富植木職の供述

   1、捜査当局による奥富植木職供述の入手

   2、被告人と東島に対する取調べの狙い

   3、取調官の認識と三人説自白

三、「出会地点」の微妙な変化とその原因

   (一)、三人説自白と「出会地点」

   (二)、単独説自白への変化と「出会地点」

   (三)、捜査当局の重なる困惑

   (四)、若干の混乱とその「収拾」

四、結び

                                             ♢

   一、はじめに

   「出会い地点」自白も、他の諸点に関する自白と同様、その虚偽架空であることはすでに明瞭となっている。すでに述べたこと(当審三十八回公判での私の意見陳述四の{三}の1、「荒神様の所を被告人は通っていない」、同2、「山学校附近の十字路で自転車に乗って来た被害者を捕まえ、山に連行したという自白も客観的事実に反する」、{1}被告人の当審供述と横田、横山証言、{2}被害者の通学路、{3}柿の木と桑の木)はそのまま援用して重複を避け、ただ横田権太郎、横山ハル両証人については、その後の第七回検証第一日目、現地においてさらに証人尋問が重ねられ、「出会い地点」から「殺害現場」に至る自白の虚偽がより一層判然とされたことを追加するにとどめる。

   もともと被告人の自白は、例えば「被害者との出会い時刻」を取り上げてみても、午後二時以降であることがわかるだけ(六・二十付=関調書)、午後三時頃あるいはもっと遅かったかも知れない(六・二十三付=青木調書)、午後とあるのみ(六・二十五付=青木調書)、夕方とあるのみ(六・二十七付=青木調書)、午後二時半か三時頃(六・二十九付=青木調書)、午後三時過ぎ頃(六・二十五付=原調書)、午後二時か三時頃(七・一付=原調書)、午後三時過ぎ頃(七・一付=原調書)という甚だしい混乱と伸縮自在さを示し、どうにでも変化しうることを現実に露呈させ、こうした混乱と取り止めのない伸縮さ自体から、「出会い自白」の虚構性を窺知(きち)できるほどのものである。

   しかも、これから述べるとおり、その「出会い地点」自白の形成過程を注視するならば、「出会い地点」自白そのものが、ほかならぬ取調官の想定にのみ基づいて出現した「幻」に過ぎないことを、判然と見ることができる。

   私のここでの意見は、その意味で「出会い地点」自白の形成過程に焦点を当てるものである。

                                             ♢

   二、「山学校附近で被害者と出会った」旨の自白は取調官の認識、想定に基づく。

  (一) 「出会い地点」自白のはじまり

   「山学校のそばの十字路」という「出会い地点」自白は、すでに最初の三人説自白に登場する(六・二十付=関調書)。同調書添付図面を見ても具体的地点は定かでないが、この「山学校のそば」で被害者と出会った旨の調書記載は、三人説が単独自白に変化してからもなお暫く維持される。「山学校のところ」(六・二十三付=青木調書)、「山学校の前の道」(六・二十三付=青木調書)、「山学校の方」(六・二十四付=青木調書)等々となっている。

   (二) 取調官の認識、想定=奥富植木職の供述

   ところが、この「山学校附近」という「出会い地点」そのものが、被告人の意思、経験とは全く無関係に、すでに捜査当局によって認識、想定されていたものであった。

   1.捜査当局による奥富植木屋の供述入手

   捜査当局は、被告人を別件逮捕するのに先立ち、奥富という植木屋から、山学校附近で被告人と東島明の二人を見た、という情報と供述を入手していた。

   この奥富供述の入手が、被告人を別件逮捕する重要な契機になったに違いないことはすでに述べたとおりであるが(私の当審三十八回公判意見陳述二の{1})、捜査当局はこの奥富供述を高く評価し、被告人や東島明の逮捕に踏み切るについてだけでなく、両名に対する取調べにおいても最も有力な追及資料としてきた。

   青木一夫警部は五月二十日過ぎ頃、植木屋奥富を取調べ、山学校附近で被告人と東島明の二人を見た旨の供述調書をとり、「そこに二人の男がおったということにつきましては、ある程度間違いなかろう」(青木一夫当審七回証言)と考えた旨述べ、主任捜査検事の原正検事も、六月五日か十日頃、右、奥富植木職を直接取調べて供述調書をとり、その供述は信用できると考えた旨述べている(原正当審十七回証言)。

   ちなみに右、奥富植木職というのは、三月十日頃被告人と東島明が遊んでいるのを見て、両人を所沢の通称十四軒というところの農家へ連れて行き、雇って貰うべく世話をしてくれた人物であった(被告人当審三十回、二十六回各供述及び当審二十九回公判で提出された被告人六・十付=清水利一調書)。

   捜査当局は、明らかに被告人と東島明が山学校附近にいたものと確信していた。その奥富供述では、東島明と被告人の二人を「現在の東中学校の近くの道路際のところ」で見たという内容になっている。というのであるから(原正当審十七回証言)、山学校附近が捜査当局の想定、認識する有力地点となっていたことも明らかである。

   こうして取調官らは奥富供述を資料として山学校附近の「二人の男」「石川と東島」をじっと睨んでいたのである。

(続く)