アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1366

狭山事件公判調書第二審4144丁〜】

                                     『自白論』

♢自白を強要し、これを維持するため如何なる手段がなされてきたか♢                                        弁護人  稲村五男

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二、「自白」を維持するためにとられた手段について

   (一)、最初の「自白」調書は三人説であった。これが一人説になり、「自白」調書が何通も作られ、カバン・万年筆・時計等が被告人の「自供」に基づき発見されるに至る。

   被告人は最初の「自白」の前後に、関(警察官)からカレーライスをごちそうになり、「君の家から持ってきた」と言ってせんべいをもらい、一人説の「自白」をした六月二十六日には「石川どうだい、今、めし持ってきたんだ」と言ってめしをごちそうになる。

   「自白」の内容が細かくなり、例えば縄の出所につき尋ねられ困った際、被告人が関に相談したところ、関は「長谷部さんの言う通りにしておけば君のためにもなる」と言う。

   その長谷部こそ、被告人に十年を約束した警官であり、また、長谷部のいない所で被告人が触った茶碗をその後捜し当てる能力の持ち主でもあった。この長谷部が取調官となって、その後「自白」調書が何通も作られるのである。

   (二)、被告人は、昭和三十八年七月九日、浦和刑務所へ移監される。同年九月四日、第一回公判が開かれ、昭和三十九年三月十一日、第十二回公判で死刑が宣告される。同年四月三十日、東京拘置所に移される。同年九月十日、第二審第一回公判において初めて「自白」を撤回する。この間、権力は被告人に「自白」を維持させるため、

(1)、昭和三十八年八月、霜田区長は被告人に対しワラ半紙三枚に裏表ペンで捜査段階での「自白」内容を書いたメモを渡す。

(2)、教育課長は被告人に対し公判廷では「一から十番、自分の好きなように勘定しろ。そうすれば大丈夫だ」と言う。

(3)、森脇担当看守は「十年で出られることは間違いない」と言い、被告人と一緒にキャッチボールまでやる。

(4)、原検事や関(警察官)が浦和刑務所に訪ねてくる。長谷部と遠藤(共に警察官)からは手紙がくる。

(5)、死刑宣告後、同房の者との話合いから十年で出られることに疑問を持った被告人に対し、霜田区長は「そんなことない、東京へ行けば大丈夫なんだ。嘆願書を出してやる」と答える。

(6)、東京拘置所に移ってからも、関より何通も、長谷部、遠藤より各二通宛手紙がくる。

(7)、諏訪部(警察官)が金を五百円送ってくる。

   こうした手の込んだ方法がとられた。

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三、捜査官も、「自白」強要、維持手段のすべてを否定しさることはできない。

   以上、一・二で述べたことは被告人の当公判廷における供述に基づいたものであるが、これら記述が真実であることはつぎのように捜査官の証言からも裏付けられる。

(一)、関は、

(1)、被告人が初めて「自白」する直前、関と被告人の二人だけになりお互いに手を握り合って泣いたこと。その日、供述調書が出来たのは午後十一時半であること(したがって右時刻まで取調べがなされたこと)を認めている。取調官が被疑者と共に手を取り合って泣くなどということは通常の捜査では全く考えられないところである。

(2)、昭和三十八年六月二十四日か二十五日、被告人と一緒にカレーライスを食べたことを認めている。

(3)、被告人から「善枝ちゃんいかっていた(注:1)のはどういう風になったんべ」と尋ねられたことを証言する。この証言などは、被告人が犯人でないことの証左であろう。

(4)、被告人と手紙のやり取りをしたのはもちろん、浦和刑務所に三回、東京拘置所に一回、被告人を訪ねて行ったことを認めている。

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注:1「いかっていた」=「埋められていた」

   この言葉は狭山地方の方言と思われ、同義語に「いけた」や「いける」がある。

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○さて、狭山事件とは全く関係ないが、気分転換に「三文役者の待ち時間(殿山泰司)」を読んでいたところ、氏が1978年に「捜査一課長(清水一行)」を読了していることを知る。

   氏曰く、「帷子の辻(京都)の書店で仕入れてきて読みました。なるほど、一気に読んだ。実際にあった事件をモデルにしたポリス小説や、90点」と述べている。

   殿山泰司に90点という高得点を与えられた「捜査一課長(清水一行)」という作品は、氏の言う"実際にあった事件"、すなわち甲山事件を指すが、この作品が実はその内容に重大な問題を孕んでおり、結果的に全国の図書館から姿を消すという末路を辿っている。

   今ここでその詳細を述べることはしないが、概略を述べれば、1974年(昭和49年)、兵庫県西宮市甲山の山麓にある知的障害児の養護施設で園児連続殺害事件が起こり、施設で働いていた女性が逮捕される。問題はこの事件の裁判中に清水一行なる作家が、あろうことか捜査員から入手した資料をほぼそのまま引用、女性被告が犯人だというバイアスがかかったまま執筆・書籍化及び出版されたことだ。

(写真は「捜査一課長」の単行本と文庫本。昔は古本屋の百均棚でよく見かけたものだが・・・)

   この書籍は回収騒ぎやら何やらと出版社をも巻き込み裁判沙汰を抱えていたが、老生の記憶が正確であれば確か作家と出版社は敗訴しているはずである。

   なお、甲山事件は冤罪であると完全証明されたのはその発生から20年後である。

   殿山泰司御大が「捜査一課長」のモデルとなった「甲山事件」まで踏み込んで、それらの関連書籍を読んでいたかどうかを推測してみた。

   殿山御大が1978年に「捜査一課長」を読了していることは本人の書いた書籍により明らかである。この後彼が1989年に73才で亡くなるまでに、甲山事件に関連する本は二冊ほど発行されており、1985年「記憶の闇」、1986年「証言台の子どもたち:甲山事件・園児供述の構造」がそれである。そののち、2008年「甲山事件:えん罪のつくられ方」という本も出版されているが、発行年からみてこれを氏が読むことはない。可能性としては氏の生前に発行されている前述の二冊が彼の目にとまったかどうか・・・。

   ここまで来て、ハタと気付く。殿山泰司は確かジャズとミステリー小説を好み、ドキュメントやルポなどは守備範囲外であったと・・・。

   ここで完全に話は脱線するが、殿山泰司を筆頭に、昭和時代の名脇役たちは超個性的な顔立ちが特徴であった。

   榎木兵衛。顔の表情は知性の有無をも表す。したがってちょっと知能の足りない(これは差別ではなく事実を言っている)役を演じ切れるのは彼を以って他いない。一言で言えば天才である。

   彼はリビアカダフィ大佐、・・・ではなく生粋の日本人、丹古母鬼馬二である。しかし妙なカリスマ性を感じさせるのはこの風貌風体からであろうか・・・。

   この方々を含め、松田優作成田三樹夫佐藤蛾次郎など、モート・ドラッカー(アメリカの伝説的風刺漫画家)が見たらたまらず描かずにはいられないであろう独特の風体をもつ俳優を産んだ日本という国は、その意味において驚異である。