アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1365

狭山事件公判調書第二審4141丁〜】

                                     『自白論』

♢自白を強要し、これを維持するため如何なる手段がなされてきたか♢                                        弁護人  稲村五男

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一、被告人が受けた「自白」強要

   (一) 被告人は昭和三十八年五月二十三日別件逮捕されたものの"善枝ちゃん殺し"については否認し続け、約一ヶ月ほど頑張った。この間、捜査権力は、ありとあらゆる方法で被告人に「自白」を強要した。その実態は次のとおりである。

   (二) 取調べは朝の八時から夜十二時にまでわたって片手錠のまま行なわれた。また、五月末・六月四日頃にはポリグラフにかけられている。六月六日には留置場内の房のすぐ前に土を盛られ、その上を地下足袋を履かされ歩かされている。そして五月二十三日から六月六日までの間、セルロイドケースに入れられた字(注:1)を手本にして字を書かされている。

   このように被告人は別件逮捕されてから六月上旬までの間に、自分は"善枝ちゃん殺し"を否認しているにも関わらず、ポリグラフにかけられるなど今まで体験したことのない異様な体験をしたのである。

   (三) その上、六月十日になると、その日だけ取調官がかわり、顔に傷のある人、福助と呼ばれる人、ほか一名の三名から、午前八時から午後四時までの間、「善枝ちゃん殺しを話せ」と台を叩きながら大声で言われ、肩を突かれたり、午前中は二、三回髪の毛を引っ張られまでした。

   その夜、従前の取調官の一人=諏訪部が現われ、泣きながら「殺したと言ってくれ」と頼んだ。

   その翌日になると、今までの取調官が被告人に対し「昨日はひどい目に会ったらしいね」「我々がいなくてごめんなさい」と言って慰めてきた。

   これは、暴力と甘言、硬軟おり交ぜての攻撃であった。

   (四) 取調官は、被告人より「自白」を得るため、手をかえ品をかえ脅かしをかけてきた。

   (1)六月十一日頃

   ○「善枝ちゃんを殺したことが嘘発見器に出た」

   ○「早く出してやるから話せ」「早く話せ。そうしたら親にも会わしてやる」(原検事)

   ○「俺達は刑事だから石川を殺していけて(埋めて)もわからない。君の親には逃げられたと言えばわからないぞ」(長谷部)

   (2)六月十八日

   ○「ぜひ言うてくれ。言えばお父ちゃんに会わせる」「言わなければいつまでも帰さない」

   ○「話せばすぐ帰してやる」(原検事)

   ○「我々を甘く見たらいかんぞ。三人のことを話せ」

   (3)六月二十三日頃(被告人が「自白」し始める前)

   ○「君はいつまでも嘘ついている。出さない」「親に会いたくないのか」「会いたいなら言って早く出ろ」「いつまでも甘く見るな」

   ○「お前の何かを出して調べる(注:2)」(原検事)

   (4)取調官は、こうした言葉を言うだけでなく、六月二日頃から一週間ほどは毎日夜十時頃になると取調室において長谷部が善枝ちゃんの絵を書いて、はさみで腕とか足とかをちょ切って(原文ママ)みせたりした。

   (5)取調官は被告人に対し不安の念を駆り立てもした。「五月二日の足跡は兄の足袋によるものだ」「あんちゃんだろう。字もあんちゃんに似ている」「あんちゃんと金子よしはるとやったのではないか」等がそれである。

   (6)さらに捜査権力は被告人に対し弁護士不信を煽り、取調官が絶対者で信頼するに足ることを植え付けた。被告人が"善枝ちゃん殺し"を否認し頑張っているにも関わらず、「弁護士」が現われ「目撃者がいる。話せ」と言ってみたり、「狭山市長」が被告人と会い、「殺さない者を何で警察が聞くのか」と言ったりした(注:3)。

   この二つの件があって被告人自身不思議に思っていたところへ、六月十七日釈放、再逮捕。六月十八日勾留理由開示公判の中止という一連の出来事が起こったのであった。被告人は目まぐるしく動いたこの一連の出来事を理解できず、とりわけ六月十八日裁判所に行けると思い、その時に期待していただけに、これが中止になったことによるショックが大きかった。

   取調官はこの動揺を利用して、ここぞとばかり「弁護士さんなんかと我々は違う」「嘘を言ったら我々はすぐ首になる」「十年で出してやると言えば必ず十年で出してやる、間違いない」「男の約束だ」と言ってきた。

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   十年の話は、取調官がすでに六月十一日頃「窃盗や何かが九件もあれば十年ぐらい入っていなければならない」「言えば十年で出してやる」と被告人に言っていたことであったが、取調官は、六月十八日の右の出来事のあと再び言い、さらに六月二十三日頃、被告人が関に「自白」する直前、長谷部は「関さんでもどっちでもいいから話せ。十年ということは約束する」と言ってきた。

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   なお、被告人は水村しんいちが自動車を一台盗って八年ほど勤めたことを昭和三十七年頃水村から聞いていたこともあって、それから考えてみると自分は九件悪いことをしているのだから十年くらいならいいと思ったというのである。ここに、被告人の思いと取調官による十年の約束説が一致し、被告人の取調官に対する信頼は高まった。

   (七)以上のとおり、捜査権力は被告人から「自白」を得るため、あらゆる手段を使った上、最後の切り札として関(源三)警官を登場させた。関は被告人とは家が近くで被告人の小さい頃から被告人と野球をやった仲間である。その関が被告人と会い、お互い手を握りあって泣く。こうした中で最初の「自白」調書が作られた。

(次回、"二、自白を維持するためにとられた手段について"ヘ進む)

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○引用文の内容をやや補足する意味で注釈を付けた。

注:1 セルロイドケースに入れられていたものは中田家へ届けられた脅迫状である。脅迫状を手本に字を書かされた場合、特に識字能力がほぼない被告などは字の書体ごと学習してしまう危険がある(筆跡が似る)が、もしかするとそれを計算済みで捜査当局は行なったのではないかと、まぁこれは老生の推測であるが、あながち穿(うが)った見方ではあるまい。

注:2  原検事が発した「お前の何かを出して」とは被告人の精液を指す。被害者は強姦されていた関係上、遺体には体液が残留していたが、この残された体液と被告の体液とを「出して」調べるという趣旨の発言である。男なら思わず仰け反るような言葉であるな。

注:3  石川被告の逮捕当時、狭山警察署において「弁護士」や「狭山市長」と名乗る者が石川被告に接触を試みたが、この者たちが果たして報道関係者や警察官であったかどうか、その正体は不明のままである。

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狭山市中新田付近から不老川沿いを進み、上赤坂、堀兼へと歩く。

   上赤坂に近づくにつれ緊張感が湧きだした。この症状は初めてこの地を巡った時から変わらぬ老生の精神・肉体反応である。原因は狭山事件を知っているからだと分析しているが、初回訪問の時は気絶しかかるほどであり、この地場から発せられるよそ者に対する拒絶感のようなものは今でも漂っている。

   昭和三十八年五月二日深夜、佐野屋前での身代金の受渡しは流れ犯人は逃走、張り込んでいた警察は逮捕に失敗する。

   不老川沿いを歩きながら、この川が佐野屋近くから逃走した犯人が向かった先にあり、そのすぐ下流にかかる権現橋の下をくぐれば右側に石田養豚場、そのまま川を数百メートル直進し右手を望めば、そこには長い屋敷森に囲まれた被害者宅が在ることを思い出す。

   犯人逃走後の捜索では警察犬も導入され、この不老川の手前で犬は立ち止まったはずだ。とは言えあの夜は佐野屋周辺に張り込んだ捜査員とは別に、道路の主要箇所には警察官が立番し警戒にあたったことは事実で、それには権現橋も含まれていた。とすると川の中を移動したのではないかという推測は崩れるのか・・・などとブツブツ言いながら堀兼のとある脇道へ入るが、途端に写真の如き景色が目に飛び込んでくる。

   おお、文句なしに横溝正史ワールドを彷彿とさせる!

   まるで昭和三十年代にタイムスリップしたような光景が広がるが、このすぐ裏を走る幹線道路から響く緊急車両のサイレン音が、この場を含め今が令和時代であることを気付かせてくれる。一枚目の写真に写る崩壊寸前の家屋の見事さよ。

   このシチュエーションの仕上げとして墓場まである。が、もうこれ以上この場にいてはこの地の祟りに触れるかも知れず、これにて帰路に着いた。