アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1357

(事件当時の遺体発掘現場付近の模様。写真は"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)

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狭山事件公判調書第二審4115丁〜】

                  『自供調書に存する合理的疑い』

                                                                弁護人=山下益朗

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(四、その点の論点についての続き)

(二)当審第六十一回公判で証人=中田健治は「丸郷青果の荷札を証人宅でも使用すること、この件について捜査官が調書を作成し、荷札を自分の家から持って帰ったがそれは数年前のことである」(要略)と証言したが、これは後出:朝日新聞五月七日号の「一方、同本部は死体に付いてあった布切れに付いていた東京・築地市場の丸郷青果の荷札は、その後の調べで地元の堀兼農協が農作物の出荷用に主として上赤坂地区の農家に配っているもので、農家は使わないで残った分は畑を区切った時の目印などにしたりするほか、農家以外にも多少流れていることが分かり、犯人が地元にいることの一つの裏付けが取れたといっている」という記事を思い出させる。

   この件について橋本弁護人が証人=大野に鋭く尋問したところであるが右証人を含めて当局は一切「丸京(郷)青果」の荷札につき口を閉ざして一切語ろうとしない。極めて臭い。「布」がビニール布を指しているとは大野証言からも明らかであるが、これは葬送、土葬などで墓制に関係あるか、もしくは被害者との顔見知り犯人が死体、なかんずく顔面の保存につき仏心を示したことにつながるものと考えられる。大野実況見分調書添付写真はこのビニール布が顔面の直ぐ下に置かれていたことを示している。ちなみに死体発掘現場には「紙一つ、草一本、五月の事件当時にはなかった」(六十七回新井千吉証言)から、犯人の埋没作業過程で「布」が混じる状況ではなく、第一、前記新聞にある犯人が持ち込んだ物であるという当局の判断がこれを裏付けている。自供は全くこれに触れるところがなく、ここでもその空中楼閣であることが明らかである。

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(三)は事情により割愛し(四)へ進む。

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(四) 文字を書く生活から程遠い石川君はなぜ五月一日にボールペンを持って家を出たか。当然の疑問であろう。当局はこれをどのように解決したか。

   「兄ちゃんのボールペンはその日の朝(五月一日)、手箱の中から黙って取り出して持って行きました。このボールペンはそれまでに競輪に行って番号を書くため二回くらい勝手に持ち出して使ったことがあり、その度毎に元の手箱に戻しておきました。

   今思い出したのは三十日投票の時に兄ちゃんのボールペンを持ち出してそのまま私のジャンパーの胸のポケットに入れていたように思う。五月一日の朝、手箱の中から取り出したのは思い違いでした。

問:五月一日にボールペンを持ち出したのは目的があったのか。

答:ボールペンが前の日に使ったままジャンパーの胸のポケットに差していたことは判っていたが、構わず持って出たので別に目的はありません」(七月三日付検面)

   新憲法発布以来民主主義は、完全な投票権を国民に保障したが、投票に出かけるのにわざわざボールペンを持たされたことがかつて一度でもあっただろうか。ボールペンに関する当局の発想は労作のうちに入るのであるが、石川君は脅迫状の「四月二十八日」とあるのを「五月二日」に訂正させられ、その用具はボールペンと自供させられた。五月一日にわざわざボールペンを持ち出したことにするのは「あてもない」という建前いかにも不自然である。しかし、持っていることにしないと筋書きが壊れる。そこで投票日に持って出て、そのまま「手箱の中に返す」のを忘れたことにした。

   ここでも当局のなりふり構わずという姿勢が目に見えるようである。六月二十四日付司員でも「四月二十七日に字を書く練習をして、四月二十八日に手紙を書いたが、終わった後は手箱の中にボールペンを仕舞った」(要略)というのであり、使ったあと必ず手箱に戻す習慣があるのに五月一日の朝だけ「構わず」持ち出したことになる。余りにも上手く出来過ぎてはいないか。

(続く)

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○さて、狭山事件は冤罪ではないかと囁かれて久しい。

   当時、この事件の冤罪性を告発すると共に、反差別・人権擁護の闘いとして昭和47年頃から昭和54年頃において、今では想像がつかないほどの盛り上がりを見せた。

(右から野間宏、梅沢利彦、中山武敏、針生一郎、日髙六郎。彼らは東京高裁に二百二十三人の文化人署名を提出した)

(当時の社会党国会議員らも現地調査に訪れている。右から瀬谷参議院議員、多賀谷社会党書記長、槙枝総評議長)

(免田事件において無罪判決を勝ち取った免田栄さんも現地調査に訪れた。昭和六十年五月)

   この事件を報道関係が積極的に取り扱えば、再審への展開も期待出来ると考えるが、残念ながらマスコミは消極的である。やはり目に見えぬタブーが存在するのであろうな。