○昨日この場へ載せた「ビニール風呂敷は、善枝さんの自転車の前かごに入っていたもの」(引用元:「無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社」)という情報は、弁護人=山下益朗の弁論によると、どうも誤情報である可能性が高まる。が、どうであろうか。
【狭山事件公判調書第二審4114丁〜】
『自供調書に存する合理的疑い』
弁護人=山下益朗
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("3、ビニール風呂敷の説明の仕方"の続き)
八、ビニール風呂敷は、果たして誰の所有物であるのか。
五月四日当時、被害者の実兄=中田健治は明らかに現場で、右風呂敷が妹のものでないと証言しており(大野実況見分調書)、また第一審記録に編綴(へんてつ)されている「押収物総目録」によればビニール風呂敷のみが明らかに「被押収者住所氏名」の欄が「不明」となっている。総合すると結局、風呂敷は被害者の所有物でないことが極めて明白と言わざるを得ない。ちなみにその実兄は現場に「カメラ」を手にして臨んでいる(同人の当審証言)ほど冷静であるからよもや見間違うことはあり得なかった筈だ。
仮に被害者の所有物だとして、被害者の遺留物所持品の出所の全てがまかりなりにも(信用し難いが)説明されている状況の中で、この特徴ある風呂敷についてのみ、その出所が全く不明である。各事実を総合すると本件ビニール風呂敷こそは真犯人の所持していたものと考えざるを得ない。当局は風呂敷の所持をあるいは石川一雄君に押し付けようと考えたかも知れない。しかし、そうすればいわゆる手拭い、タオルと異なり、当局の責任において必ずその出所を明確にしなければならないことになるであろう。当局はその場その場の都合により、ある時は紛失したことにし(財布をみよ…お金目当ての犯人が財布を失ったことの不自然さ…)、ある時は被害者の所有物に作り変えてしまう。
ビニール風呂敷に関する自供の架空性は、ひいては逆さ吊るしという発想の架空に結び付くものであり、全自供調書の信憑性を根底から覆すと言うことが出来る。
("3、ビニール風呂敷の説明の仕方"は以上である)
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4、その点の論点について
(一)自供調書によれば五月一日の履き物はすべて「ゴム長靴」(七月六日付、七月二日付、七月三日付各調書)であるが、ゴム長靴の足跡が全く発見されていないのは奇妙なことである。
当審第五十七回公判における証人=諏訪部証言によれば「スコップ発見現場付近から足跡が発見され、それは五メートル以内の距離だった。そしてスコップ発見現場から北方三百メートルの付近、つまり自殺した奥富玄二方面で地下足袋が発見された」(要旨)ことが明らかである。後に提出の朝日新聞:昭和三十八年五月十三日付はこれを裏付けて、「特捜本部は十二日午後、スコップ発見現場付近で地下足袋の跡を発見し、二日深夜犯人が金を取りに来た茶畑の地下足袋足跡との照合を急いでいる」と報道している。また埼玉新聞:五月二十八日付は「教科書発見現場から地下足袋足跡が二十七日発見された」、また同六月二十七日付では「特捜本部では犯人が現場に残したゴム草履の出所を突きとめるため、この日までに大宮市内約三百軒の履物店、荒物雑貨店にひとあたり当たったが、いずれも同様のゴム草履を扱っていないことがわかった。このため、ただ一つの遺留品であるゴム草履の出所捜査も行き詰まった形だ」とそれぞれ報道した。
捜査当局の証言ならびに各新聞の記事によれば、犯人が五月一日地下足袋を履いていたことを裏付けていると考えざるを得ない。なぜならスコップ発見現場及び教科書発見現場での足跡が地下足袋であったことは、五月一日のゴム長靴と矛盾するからである。五月一日午後四時三十分以降の天候は「雨:本降り」(入間基地周辺気象状況)なのであるから、犯行のあらゆる現場にわたり、鮮明な「ゴム長靴」足跡が残存すべき筈であるのに、このような状況は全くなく、逆に「五月六日の山狩りで、善枝さんの死体が発見された現場から殺害推定現場にかけての雑木林の中に新たな地下足袋(十文半ぐらい)の足跡と、この足跡に並んだ自転車タイヤの跡を数ヵ所で見つけた。普段、人が通るところではなく、中には道のないところにもタイヤと足跡が見つかっている。同本部はこれらの足跡と自転車のタイヤの跡は犯人が善枝さんを殺したあと残されたものと推定している」(後出:朝日新聞五月七日付)のである。
当局は犯行現場(五月一日の)でも地下足袋足跡を発見しているにも関わらず、かかる証拠を隠している。松川事件の"諏訪メモ"は生きている。直ちに開示すべきである。
(続く)