【狭山事件公判調書第二審4108丁〜】
『自供調書に存する合理的疑い』
弁護人=山下益朗
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(2 、荷台を押さえて止めたこと、の続き)
確認しておくべきことは、荷台を押さえて自転車を止めたとは言い得ても、どのような姿勢で引き止めたのか、両者の姿勢位置関係はどうであったか、止める前に警戒して周囲を見渡すということはしなかったのか、自転車のスピードはどれくらいであったのか、最初石川君が被害者を発見した時の両者の間隔はどれ程であったか(その時、私も善枝ちゃんも道の左側を通っていた…六月二十九日付調書)、道路巾約二・二メートル(第一審検証)の場合、左側歩行者の側に、つまり自転車が寄って来て共に左側ですれ違うことの不自然さ、また「すれ違うと一緒に自転車の荷掛けを押さえて止め、そして自転車から善枝ちゃんが降りた」(同調書)というが、善枝ちゃんは自転車のどちら側に降りたのか、その時の善枝ちゃんの顔の表情はどうであったか、などについては全く触れるところがない。第一審検証調書によれば、検察官は出会い地点についても①から④までの間のどこかであると説明するのみである。
石川自供調書に存するいくつかの特徴のうち、ここで特に指摘しなければならないのは、何十回この調書を読んでも、いや読めば読むほど、奇妙な疑惑に包まれる。それはこの調書からは遂に被害者の生前を彷彿させることが出来ないということである。
殺人事件の調書に、必ずも被害者の表情が描かれるわけではないが、そのような場合でも不思議に調書全体からその感じを受けとることが出来るものであるのに、本調書ではもどかしい程に、その姿は活字としてしか心に映らない。事実、被害者はいよいよ姦淫殺害に及ぶまで何らの表情を示そうとしない。
私のいう表情とは美しい、汚れている、笑っているとかいうことでなく、「栄養のゆき届いた立派な体格」「勝ち気で男まさりの性格」「しっかり者」「責任感に富んだスポーツマン」という、各証人の評価を裏付けるに足る、具体的人間の表情と動きが本件自供調書には全く出てこない。かかる表情が描かれるに最もふさわしい場面は、何をおいてもまず出会い地点であったろうに。
つまり、そうならざるを得なかったのは、石川一雄君描くところの被害者中田善枝は、単に茫漠(注:1)とした観念として、当局が彼に与えたものにしか過ぎなかったからであろう。文字も知らない石川青年が、どうして見たこと、触れたこともない女の姿を描くことが出来ようか。あまりにも当然なことであったのだ。
(続く)
注:1「茫漠=ぼうばく」意味:とりとめがないほど広いさま。また、ぼんやりしてつかみどころのないさま。
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石川被告が被害者と出会ったとされる十字路。(第一見取図①)
その後、自転車と共に二人は並んで雑木林の方へ歩いて行ったという。付近では農作業をしていた人たちがいたというが誰も二人を目撃していない上、被告の自供によると「大人しくついて来た」「逃げようともしませんでした」と述べている。何か、そもそもこんな事実はなかったと考えたほうが合理的だと思うが・・・。
(第一見取図)