【狭山事件公判調書第二審4107丁〜】
『自供調書に存する合理的疑い』
弁護人=山下益朗
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(2 、荷台を押さえて止めたこと、の続き)
私は冒頭、後ろから来たのか、正面からぶつかったのかについて記憶違いの起こりうる筈がないと言っているが、それは次のこともあるからである。まず、六月二十六日付及び七月四日付石川自供調書添付図面で見る限り、前述の「山学校の前辺り」が当審第一回検証第一見取図⑫に該当していることが明らかであり、同検証図面①(出会い地点)から⑫までは見通し距離二百メートルと計測されている。①から二百メートル先の地点でひっくりかえって(引き返して)二百メートル以上戻って①まで引き返したことになるのであるが、この点から考えて、今来た道を二百メートル以上も戻ったという者が、「後ろから」と「すれ違った」とを記憶違いすることは経験則上からも断じてあり得ないと言うことができる。判決はこれを「緊張」による「記憶違い」だと言うのであろうが斯くして、裁判所による合法的殺人が準備された次第である。
ちなみに「山学校の前辺り」(各自供調書)とは、⑫点角から更に北東へ曲がり、小学校の真ん前まで出たということにでもなれば、これは大変な差異であり、このように読めないこともないところに、石川自供調書が砂上の楼閣と言われる所以である。
「ひっくりかえった」(引き返した)というが、一体、人間の歩行において「あてもなく」(判決)「ひっくりかえる」ということがありうるのか。「ひっくりかえる」という行為自体極めて意識的な行為であろう。例えば、この地点から真っ直ぐ帰途につくためか、疲れたためか、散歩に飽きたか、何らかの必要を思いつくなど、人間の諸々の行為は通常、その人の生活意識、目的の実現として捉えられねばならず、これが正しい認識方法であろう。ところで「引き返す」行為が日常性を持った生活目的に支えられている限り、その行為のある場面で突如としてその生活目的とは全く異なった動機(ここでは犯行)が形成されそれが実現されるという過程において必ずや、相対立する反対動機の斗争(日常性にとどまろうとする動機形成とこれを破壊しようとする動機との)が現出する筈である。ことに子供ではなく、いわば大人に出くわしたわけである。この重要問題の検討について、当局第一審判決は「あてもなく」と表現することによってこの問題を誤魔化してしまった。つまり石川青年をまぼろしの抽象化した人間として描くことになった。だからこそ石川自供調書にはかかる斗争(矛盾)の心理過程を片鱗だに示すことが出来ず、出会い地点の状況には全く迫真性がぽっかりと欠落している(これはあらゆる場面においてしかりである)。その意味でも本件自供は生きた人間の供述ではなく、明らかに創作された調書と言えよう。
このことは「引き返した」という重要な意味を持つ行為が現実に起こっていれば、その行為を取った人間の口を通して必ずや生々とその意味を説明される筈であるのに、筋書き設定の必要から作り出されているが故に、単に「あてもない」行為の連続としてしか記載することが出来なかったのである。
(続く)