アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1350

狭山事件公判調書第二審4105丁〜】

                  『自供調書に存する合理的疑い』

                                                                弁護人=山下益朗

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(第二、合理的疑の数点についての続き)

2 、荷台を押さえて止めたこと

   昭和三十八年六月二十三日付青木、遠藤調書によれば、中田善枝をつかまえた時の状況について「後ろの方から(荒神様の方から)自転車で女の子がやって来たので荷台のカバンを押さえた」(要略)、六月二十七日付同調書では「私はこの前、後から来た善枝さんの自転車の荷掛けを押さえたと言ったがそれは間違いで、私はその時小学校の方まで行って荒神様の方へひっくりかえって来たら善枝さんとすれ違ったので荷台を押さえた」(要略)、六月二十九日付同調書も「小学校の前辺りまで行って引き返してきた」というのである。

   ところで、うしろから走行中の自転車の荷台を押さえて停止させるのと、対行して正面から走行してくる自転車の荷台を押さえてこれを停止させるのとでは質的に全く異なっているということである。細かいことのようであるが考えてみる必要がある。まず正面からやって来る自転車とすれ違いざまに、体の方向を変えずにその荷台を押さえて自転車を停止させることは極めて困難を伴うことが実験的に明らかである。仮に自転車が時速二十〜三十k(サイクリングの場合通常五十粁である)以上であれば運動の慣性のため、いきなり荷台を強く引き止めると運転者か、もしくは引き止めた方かどちらかが必ず、数メートル引きずられるか顛倒(原文ママ)の可能性が極めて強い。それは運転者が全く無意識のままペダルを踏み続けているからである。したがって上手く(安全に)停止するためには、まずある程度の距離を置いた正面から停止のサインを発しなければならないか又は荷台を押さえる前に、ハンドルに手をかけねばならないことが実験的に明らかである。

   次に後ろから走行してくる自転車の荷台を押さえて咄嗟にこれを停止させることはまず不可能に近い。無論"今うしろから知っている誰かが走ってくる"ということをあらかじめ意識できる場合であれば別であるが、全くそれを意識せずに、自分の傍を追い越して走行する自転車の荷台を咄嗟に押さえて停止させることは神技(原文ママ)に近いことが実験的に明らかである。後方から走行してくる自転車は通常、前方を歩いている人のすぐ傍を走るよりも、むしろ衝突を避けて、いくらか離れて走るに違いないからである。

   さて石川自供調書で最初に出てくるのは、神技に近いあとの方、つまりうしろからやって来る善枝さんを咄嗟に押さえたということになっている(六月二十三日付調書)。

   さて、第一の問題は、現に経験した者が、うしろから走ってくる自転車を止めたのか、対行して正面からやってくる自転車を止めたのか、という点について果たして記憶違いが起こりうるかという疑問である。何故なら、人通りのない田舎道で、ある男と自転車で走行してくる女が対行してすれ違ったとして女の容姿、服装、そのスピード、目線の出会いは、鮮やかな印象としてその男に記憶されたに違いない。ましてや犯人において然りである。犯人である限り、この点に関する記憶違いは絶対に起こらないと断言してよい。

   石川君は四日後の六月二十七日付調書で「それは(うしろから善枝さんが来たこと)間違っていて、私はその時、小学校の方まで(六月二十九日付調書では山学校の前辺りと言っている)行って、荒神様の方へひっくりかえってきたら善枝ちゃんとすれ違った、そして私はすれ違ってから前話したように善枝さんの自転車の荷掛けを押さえた」と、その供述を変更している。しかしこれも石川君の自供が任意に変更されたのではなく、当局の見解の変更と見なければならない。変更の理由は殺害現場への連行に都合良くするためと(六月二十三日付調書の通りだとすると、いわゆる出会い地点は当審第一回検証第一見取図⑫の近くとならざるを得ない)、うしろから走ってくる自転車の荷台を押さえて停止させることが極めて困難であることに気付いたことであった。しかしだからといって正面から対行してくる自転車を停止させたと言うためには「すれ違った」ことにしなければならず、且つ、そのためには「ひっくりかえる」必要が生じてくる。何故なら善枝さんと石川君は同じ道を同一方向に向けて歩いたことになっているからである。そうすると今度はどこでひっくりかえさすか、という困難な問題に逢着(注:1)せざるを得ない。いわゆる出会い地点でひっくりかえることにするのはいかにも不自然とならざるを得ない。つまり取ってつけた工作が余りにも見え透いている。そこで山学校の前辺りで「ひっくりかえった」ことにした。これで上手くいったということであったかも知れないが、ここでもまだ問題は解決されていない。

(続く)

注:1「逢着(ほうちゃく)」=出くわすこと。行きあたること。

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○文章中に「ひっくりかえる」という表記があるが、これは「引き返す」「引き返した」の意と思われる。

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○下の二点の写真は第一見取図とその説明文。