【狭山事件公判調書第二審4102丁〜】
『自供調書に存する合理的疑い』
弁護人=山下益朗
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(第二、合理的疑の数点についての続き)
さらに指摘しなければならぬことは、石川君は遅くとも昭和三十七年十月十五日(前記:石川寅夫の供述記載)以降、早くとも昭和三十七年六月三十日(前述:斉藤の供述記載によれば、斉藤は昭和三十七年六月三十日以降、石川一雄に直接面接していないし、また残代金について直接石川一雄に請求したことはないと言っている)以降は、いわゆる"借金"の返済を誰にも請求されたことはないということが明らかである。仮にあるとすれば、それは父=富造からだけであろう。しかし昭和三十七年十月十五日から、石川君が脅迫状を書いたとされる昭和三十八年四月二十八日までの約七ヶ月間、父が子に返済を迫らねばならない程の状況は証拠上まったく存在しないし、現に請求していないことが明らかである。
父が子に約七ヶ月もの間、請求もせず放置していたのに、なぜその子が「昭和三十八年四月二十日頃、テレビを見て吉展ちゃん事件と同様の手段で現金二十万円を喝取し、その中から金十三万円を父に返済せねばならぬ」(冒陳)と決意することがあり得ようか。ましてや父が立替金として金七万円足らずを支払ったのは前の年の十月であったという状況においてである。また別件九件の内容を検討しても、いわゆる金を目当ての犯行はまったくないことを見落としてはならない。
当時(事件発生)石川君の生活はどういう環境にあったか。部落差別のため就職の機会均等、教育を等しく受ける権利を奪われた彼は、たしかに職業を転々としてはいたが、金に逼迫した状況は証拠上まったく見られない。むしろ、七月二日付原検面調書では「四月中の小遣い銭が七、八千円くらい」(当時では決して少額ではない)であり、六月二十四日付青木、遠藤調書によれば「三月、四月は兄の鳶の手伝いをしたり、三月は二万円、四月には一万五千円の小遣いを兄からもらっ」ており、また当審第十五回公判における証人=川本保男によれば「五月二日に一緒に映画に行き、その朝、石川が犬小屋を作っていたこと、四月三十日には石川も選挙の投票に出かけている」事実が認められるのであって、金銭関係について逼迫した状況は客観的にも又心理的にも証拠上まったく存在していないのみか、投票あるいは映画鑑賞という行為をとってみても、ある意味では極めて平均的な市民生活を営んでいたと言わねばならないであろう。
右に述べた生活状況の中で石川一雄は逮捕され、単独犯行を押しつけられたわけである。しかしまったく身に覚えのない事件の動機をここでもまた上手く説明できる道理はない。無理こじつけの表現として、彼の動機は右往左往しなければならなかった。
当局は犯行に至る動機形成の引き金を、吉展ちゃん事件のテレビにおくが、吉展ちゃん事件の失態に次ぐ狭山事件の失態で国民から指弾された警察は、刑札(原文ママ)の威信回復のため、必要以上に吉展ちゃん事件を意識し、これが石川君の動機形成に利用されたと見れないこともないのである。テレビでヒントを得たと一応は自供させては見たものの、もしそうであるなら被害者=吉展ちゃんは当時四才として報道されていたのであるから、犯人はまずその年令の子供を探すという、あるいは"子供"という観念に取り憑かれていたはずである。確かに六月二十九日付調書などでは「子供をつかまえてその子供と引きかえに金を取ってやろうと考えはじめた」というのであるが、もしそれが事実であるなら、計画前後の生活状況の中に、それを認めるに足る何らかの具体的行動(脅迫状の準備以外に……むしろ脅迫状は本質的な関心ではない筈である。重要なのはどこの、誰か、となる筈であろう)が見られなければならない。石川君にかかる状況が全く見られないのみか、単に四月二十八日に脅迫状を書きそれをポケットに入れたままで、五月一日もそのことを意識したわけでもなく、「あてもなく」(判決)荒神様の方に歩いていたとき「中田善枝に出会うや咄嗟に彼女を山中に連れ込み人質にして、家人から身代金名下(注:1)に金員を喝取しようと決意し」たというのである。
だが、犯行への動機形成から犯行実現への決意は確実に密接に連関(注:2)しているのが通常であり、ましてやテレビで全国に放映されるべき重大犯罪であってみればなお一層のこと、動機形成から犯行実現に至る生活過程(現象)には、その長短強弱はあれ、確実に目的的(注:3)且つ自覚的心理過程がその起居動作の中に犯人の人格と一体となって日々実現する筈のものであるに違いない。その例外をわずかに夢遊病者か狂人(原文ママ)にみるに過ぎないであろう。
しかも対象として幼児もしくは子供を誘拐しようというのであるから、子供というものに対する心理的対応がすでに犯人の心に固定的な映像として残されていると考えられる。しかるにこれとは著しく質的・物理的に全く異なった対象に出くわし、しかもこれを現に選択しようと決意するとき、犯人は通常いかなる心理を経験するものであろうか。恐らくそれは瞬間的にせよ拒絶的か、あるいは、ためらいの心理、もしくは断念から決意への間に至る強烈な緊張として経験され、且つその経験は記憶として深く印象されるに違いなかろう。
ところが、かかる状況を石川自供調書には垣間見ることさえ出来ないばかりか、体格も発達した中田善枝さんの姿を見るや、忘れ去られていた誘拐・身代金喝取の動機が、心理的準備や物理的計画もないまま、しかも何のためらいもなく突如として実現されることになる。いかにも空中楼閣の物語と言わねばならない。
以上検討した如く、石川自供調書にみられる動機並びにこれを受けて判決が認定する事情は、認定そのものが誤り(不存在)であるばかりか、強制、誘導に基づく動機のでっち上げは、親元のありもしない借金返済のため、他から金員を喝取するというこの、世にも珍しい、いびつであるにせよ、日本一の孝行息子に仕立て上げたのである。
(続く)
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注:1 「名下(めいか)」=「その名目のもと」という意味。
注:2「連関」=「連関」と「関連」は、どちらも事柄同士の結びつきを表す言葉だが、ニュアンスや使い分けに違いがある。一般的に、「関連」はより幅広い意味で使われ、特に複数の事柄が関係していることを示す。一方、「連関」は、より具体的なつながりや、ある一つの全体を形成する要素同士の関係を指すことが多い。
注:3「目的的」という言葉は、「目的のような、目的にそった、目的に関する」といった意味である。
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○「犯罪」というカテゴリーに魅力を感じ、可能な限りそれらの書籍を手に入れ目を通してきたが、振り返るとある事に気付く。それとは明らかに犯行を行なった者が明確となっている犯罪と、冤罪性が疑われる犯罪との、同じ「犯罪」という枠の中でも二つの部類が存在するということである。相反するそれぞれの書籍に目を通すと、現実に犯罪を遂行した者と、そうではない者の発した言葉には何か熱量の違いが感じられる気がするのである。石川被告の供述に犯罪者が放つ特有の熱量が欠けているということは、これは言うまでもないことであろう。