アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1345

狭山事件公判調書第二審4094丁〜】

                  『自供調書に存する合理的疑い』

                                                                弁護人=山下益朗

                                            *

([2]捜査官の心証の続き)

   ところで公判でも公訴事実を認めたから間違いない、これで安心、とはいかないであろう。何故なら自白を撤回すれば元の木阿彌であるし、いまが今まで信用できない、つまり架空と考えられた自供内容が、公判においてその通りだと陳述したからといっても右架空の自供内容が途端に真実として生まれ変わるものではないことは(お伽話ならいざ知らず)誠に見え透いた道理と言わねばならないのである。第一審判決はしたり顔して「捜査機関に対し全面的に自己の犯行である旨自白するに至るや、その後は捜査機関の取調べだけでなく起訴後の当公判廷においても、一貫してその犯行を認めている」といっている。「当公判廷」を強調するのは自由であるが、当公判廷に決定的意義を与えたのは裁判官と検察官だけであり、石川君にとっての公判廷とは、捜査段階の継続として映ったか、あるいはせいぜい捜査官との約束(刑期十年)を果たしてくれる場所としか考えられなかったのであり、この点は他の弁護人が詳細に論ずるところである。

   さて、自ら強制誘導して自供させておりながら「自白が全部真実とは思われない」とは恐れ入った芸当と言わねばなるまい。仮に検察官がでっち上げに加担していないとしても、自白に重大な疑問を投げかけつつ起訴に持ち込んだ検察官の心境の内実こそは、狭山事件の冤罪であることを深刻に印象づけていると言わねばならないのである。

   第一審は検察官の不安と動揺、苦悩と焦燥を掻き立てたであろう自供内容の矛盾を、被告人の「興奮、緊張及び活潑な動作」という勝手な推理によって抹殺してしまった。しかし大いに緊張し興奮したのはまさに第一審の裁判官ではなかったか。

                                            *

[3]三人共犯の自供から単独犯行の自供への背景。

   石川自供が三人共犯から単独犯行に変更させられた背景は充分に検討されねばならない。というのはこの変転は石川自身が任意に三人共犯を自供し、あるいは単独犯行へと変転したものではない。変わったのは捜査当局の考えであり、捜査当局は石川君の口を通して、三人共犯をでっち上げ、次いで石川をして三人共犯の自白を撤回させたのである。当局は当初、犯人複数説を確信していた。それには次の如き事情があった。

   検察官=原正は第十七回公判で「植木屋の奥富という人の情報で、その二人組が東島と石川らしいということであった。この二人が現場付近を徘徊したということで、それで六月五日か十日頃、奥富から調書をとった」と証言した。また同証人は、犯人複数説をとった理由として「被害者がいい体格をしているので一人では難しい、タオル・手拭いは通常二本持たないということから共犯を考えた」とも言った。

   これを裏付けるのに第四十八回公判で証人=石原安儀が「私ども、ことによれば東島君が犯人じゃないかと思うくらい自信を持って何だかんだ裏付けをしたり、取調べたりした」と証言していること、さらに第十八回公判で東島明は「戸門勇、石川、自分三人でやったろう、石川はそう言っているといって調べられた」と証言しているが、東島がこのように調べられたのは多分六月十日頃から十八日前後であったに違いない。これは後記河本、清水各調書によって裏付けられており、しかも石川が記録上三人共犯を自供したとされる六月二十日以前であろう。

   捜査当局が犯人複数説に立っていたことは右各証言以外にも、当審第六回、第七回公判の青木証言、第四十回、第四十三回公判における河本仁之証言、なかんずく同証人は「死体を車で運搬したかということについて石川と問答があった」と証言、さらに第九回、第五十一回公判での長谷部梅吉の「車を使用したと推定した幹部もいた」とか、その他に多くの捜査側証人が犯人複数説の存在を認めている。

   また、後に提出する「週刊現代」六月二十日号は検察側の意向として次の見解が示されたと報道した。

「恐喝と殺しを直線で結びその線上に石川をおくに足(た)る捜査資料は何もないこと、事件当日ごく短時間、犯人が極めて敏速に行動していること、例えば死体を埋めた農道の土を、少なくとも善枝さんの死体の容積に相当するだけの量をどこかに処分し、表面が平らかであったこと、佐野屋付近の足跡が石川のものと大きさが違うことなどから犯人複数説に立っていると」

   一方、石川君は第三回公判で「長谷部から死体を車で運んできたのかと聞かれ、また、二人で担いだのか」、「検察も警察も入曾の男を知っていたようだ、河本検事は三人で運んだという人がいると言った」、また第二十七回公判では「原検事から車で運んできたのか、二人で担いできたのかと聞かれた」と供述している。

   これらの事実を綜合してみると、被告人が捜査官から他に共犯がいるに違いないと、入れ替わり立ち代わり強制・誘導の訊問を受けたことをうかがい知ることができるのである。後に開示された六月十一日付河本調書、同十八日付清水調書はこの事情を雄弁に物語っている。

(続く)

                                            *

○当初警察はこの事件の犯人は複数と考えていたようである。五月二日深夜、佐野屋での身代金受渡しという状況下、犯人が潜んでいた場所で、一人は金を持参した被害者の姉=登美恵と問答を行ない、残る一人は周囲を警戒しながら目の前にある木の株に刃物で切り傷を付けており、この直後の警察の一斉追跡時、暗闇の中を一人は不老川方面へ、もう一人は堀兼農協(特捜本部設営場所)方面へ走り去ったとの情報が残っている(これをいつどこで聞いたか読んだか、老生は完全に失念しているが)。このような事案に加え、死体の運搬やその埋没にかかる手間など考慮すれば、必然的にこの犯行は一人では行なえず、したがって初期の捜査当局が下した判断、すなわち犯人は複数との見立ては間違いなかったと思われる。