【狭山事件公判調書第二審4079丁〜】
『自白強要、屈伏への経過』④
弁護人=阿形旨通
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五、捜査官が作成した「供述調書」と題する、供述者とされている石川被告の署名押印のない、従って刑訴法三二二条等にいう供述録取書にあらざる、ある種の公文書が二通存在する。
①六月十一日付検察官=河本仁之、検察事務官=橋上英、不成立調書。
②六月十一日付警察官=清水利一、同遠藤三、不成立調書。
河本証言によれば、同検事は、狭山署において六月十一日、朝から石川被告を取調べた。そして夕食後から調書を作り始め、午後七時か八時頃までかかった。しかしその日は石川被告は署名押印を拒否した。翌十二日も午前中から調べたが、署名押印を得られなかった。検事正から、(もうこれ以上)直接当たるのはやめろ、との指示を受けて石川の取調べから手を引き、選手交替となった(第二審第四十回公判)。
河本証人に対する石川被告の発問(それは自らの体験を挙示しての対質的尋問であり、実質的には事実の供述に等しい)によれば、六月十一日、河本検事は石川被告に対し、暗に石川の兄=六造、かねこよしはる、かねこいさむ兄弟を指して、その三人共犯で(善枝ちゃん殺しを)やったのではないか、と追及した。石川被告が「兄貴は警察に一度も逮捕されたことはないから、そんなことをするわけはない」と抗弁すると、河本検事は、「六造の(地下)足袋が足跡と一致しているから、兄さんがやったのではないか」と追及を重ねた。
こうして石川被告の前に、ジョンソン基地・パイプ窃盗の件とはまた別の、非常に気がかりな脅迫のたねが出現したのである。石川被告は、「もし兄貴がやったのなら、俺がやったことにしてくれ」と絶望的な口をきくまでに追い詰められたのである(第二審第四十回公判)。
こうした石川被告の苦痛に満ちた心理状況の前で、河本検事は前述の「供述調書」なるものに、「中田善枝さんの件について申します。善枝さんを殺したり、関係したり、死体を埋めたり、脅迫状を書いたり、二十万円取りに行ったりした事は、三人でやったことです」と書き、さらに「問:三人というのは誰か。答:一人は私なのだが、あと二人はどうしても云うつもりはありません」伝々などと一方的に書き綴って行った末、石川被告に署名押印を強要した。石川被告は憤慨して河本検事に湯呑み茶碗を投げつけようとしたところ、斉藤留五郎刑事に止められた。そんなこともあって石川被告は、河本検事には調べられたくないといって断った。それ以後、同検事の取調べはなくなった(第二審第四十回公判)のである。
これに続くのが前述の六月十二日付清水・遠藤不成立調書である。前引の河本証言によれば、これは同日午前の河本検事の取調べの後で、おそらく午後に作成されたことになろう。
「五月一日の夜、・・・・・・中田栄作さんの家へ届けられた手紙の字と私が東鳩で書いたもの、又、・・・・・・私が書いたもの等が同じだと字の先生が言って居るそうですが、私も字の先生の言う事は信用します」と記載されている。仮に石川被告がこの時こう供述したものとしても、それは一般論であり、不利益事実の承認を迫られて答えたものに過ぎない。
次に、「私は裁判所へ行って全部言います。警察に居るうちは、どうしても言えません。悪いことは隠し通せるわけではありませんから、弁護士さん立会いで決り(原文ママ)をつけます。人数が増えて警察では大変でしょう。これ以上を聞かれても言いたくありません」と書いてある。仮に石川被告がこう供述したものとすれば、これはジョンソン基地パイプ窃盗の件を指すものであることは見易い道理である。それが第一次逮捕勾留の被疑事実以外の事実であること、しかも三人、もしくは七人に事件が広がるべきことと、「人数が増えて伝々」ということとは完全に符号している。そして、この時期にはまだ石川被告が弁護人を信用し頼っていて、教えられたとおり(例えば中田弁護人は接見の際に、石川被告に黙秘権、供述の自由について教示し、ただし自分が知っていることは、言いたければどんどん言えばよい、しかし、その場合でも調書に署名押印する義務も、また、ない、ということを説明している----中田証言。第二審第六十一回公判)裁判所で任意に供述しうる雰囲気の中で、また弁護人の介添えのもとに正確に、真意を曲げられることなく述べ得る情況の下で、これまで述べなかった窃盗事件を述べるつもりであるという気持ちが表わされている。
それだけに、本件捜査陣が石川再逮捕後に集中的に行なった弁護人への中傷誹謗、被告人弁護人間の離間策略の犯罪性は重大であり、それによって被った石川被告の精神的打撃の甚大さも十二分に理解できるのである。
(続く)
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○さて、老生が引用元としている狭山事件公判調書第二審の資料は七分冊に分かれ、それぞれの分量は電話帳一冊分の厚みに相当する。ちなみに第一審の公判調書は電話帳二冊分の分量だ。
現在、この裁判資料を手に入れるとなると、古本屋サイト「日本の古本屋」に出品している業者に二十万円ほど払わなければならず、ビンボー人に残された道は本書を図書館で読むという手段のみとなった。
(この公判調書及び狭山事件関連書籍は図書館の規則により部屋からの持ち出し禁止であり、保管場所である資料室内でのみ閲覧が許されている)
図書館に狭山事件の公判調書が保管されているという事実に激しく反応を示し、当初、老生はこれをすべてノートに書き写し、のちにゆっくりと閲覧しようという腹積もりでいた。したがってこの当時の休日の過ごし方は、午前中に図書館で公判調書の一部をノートに書き写し、昼食後は堀兼地区を自転車で巡回、佐野屋跡地や被害者宅付近を遠望し、にわかに緊張感が高まったところで川越方面の自宅へ逃げるように帰るという日々を送った。
事件当時の関連場所に、現在でも野次馬がさりげなく集(つど)うのはなぜか、を今ここで論ずるつもりはないが、その一人である老生は一つだけ断言できる。それは「馬鹿」で「暇」だからである。これはとても恥ずかしい行為であり不謹慎でもあるのだが、「馬鹿」で「暇」な人間はそれを驚くほど容易に乗り越えるのである。
話がそれたが、公判調書を人力で完全複写することは不可能であると途中で気付き(悲しくも同時期に資料室内にコピー機を発見)、設置されたコピー機を煙が出るほどフル回転させ電話帳七冊分を複写し悦に浸るも、早速複写漏れを発見し本日図書館において百七十八枚分を複写、これで狭山事件公判調書第二審のコピーは完了、いわゆる完全版となった。それなりにコピー代はかかったわけだが、個人的には本件資料に対し歴史的資料という価値を感じているゆえ、その複写代は妥当な金額と思える。
気合いを入れて一挙に百七十八枚複写するも、これだけの量はハンパなくエネルギーを消費させられた。この後、図書館近くのコンビニで酒を浴びるがまったく足りない。今宵はカツオのたたきをニンニクたっぷりの醤油で食しこれを焼酎で胃袋に流し込み、蘇える金狼の朝倉哲也の如く失った精力の復活に勤めることとする。できれば、さらに渋谷、大和通り「アリラン」なる薄汚いホルモン焼き屋に向かい、肉汁の燃える煙にまみれつつ赤や紫色の臓物に唐辛子がこびりつき強烈なニンニクのタレと血の淀みに浸る中から小袋の切れはしをつまみこれを強靭な歯で噛み締めその養分が肉体の隅々まで行き渡ることを確認したいと思うが、このアリランという店は大藪小説の中での話と気付き断念する・・・。