アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1333

狭山事件公判調書第二審4070丁〜】

自白論  その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』

                                                               弁護人=宮沢祥夫

                                            * 

(第三・『時計』の続き)

   三、『時計の捜査は徹底的になされたが発見出来なかった。しかしそれには理由があったのである』

   被告人は時計の地図を書いた翌日、すなわち六月二十八日頃、警察官から善枝の時計だといって女物の時計を見せられ、自分の腕にはめてみたというのである。当審第三回公判における中田主任弁護人の尋問に対し被告人は次のとおり供述しているのである。

中田弁護人=「最初にあなたにその時計を見せたのは誰でしょうか」

被告人=「長谷部さんです」

中田弁護人=「長谷部さんはその時計を見せて何か言いましたか」

被告人=「ええ。これ善枝ちゃんのだろうと言いました、俺に見せて。だから俺、そうだと言って、貸してくれと言ってはめてみたです。そうしたら俺にぴったりだったから、善枝ちゃんも案外腕が太いなと言って皆んなで笑ったわけです」

中田弁護人=「はめてみたというのは」

被告人=「実際に自分の腕にはめました」

中田弁護人=「そして、留め金をかけてみたんですか」

被告人=「ええ、そうです。そうしたら丁度よかったわけです」

中田弁護人=「その時計を長谷部さんに見せられた時のことですがね、大体いつ頃か憶えていますか」

被告人=「大体、俺が一人でやったというのがね、二十六日頃なんだね。で、二日ぐらい経ってからだから、二十八日頃だと思います」

   このように長谷部から被告人は時計を見せられていたために、時計の形状について説明し図を書くことも可能であったのである。

(石川被告が書いた時計の形状の図)

   原審小島朝政証人は「埃が付いてそれがなんか露にでも湿って乾いて、また埃が付いて露で湿って乾いたように、文字盤のガラスがくすぶって汚れておりました。もちろんバンドも埃が付いてそれに雫でも付いたような跡がございました」とバンドが湿っていたことを強調している。

   また当審第五十二回公判における青木一夫証人は、小島朝政と時計が発見された場所に行ったが、その日は、ひどく雷雨があったその前日あたりのように思う旨供述している。さらに当審第六十四回公判において弁護人の尋問に答えて小川とら証人は、時計が発見され警察官が小川松五郎宅に来たのは雷雨のあった後である旨認めている。

   このように見てくれば時計の発見されたのは六月二十八日か六月二十九日であって、警察官によって徹底的な捜査の行なわれる以前それとは別な方法によってなされたものであることは充分に推認されるところである。したがって六月二十九日、六月三十日の両日の徹底的な捜査によって発見されなかったのは当然のことでもあったのである。

   かくして六月二十九日、六月三十日の捜査の前に発見された時計が被告人に示され、それに基づいて警察官の誘導により被告人の供述調書が作成されたのである。しかし何のはずみか六月二十四日付青木調書には六月二十九日被告人作成の図面が添付されているのであって、その矛盾と作為を明らかにしているのである。

(続く)

                                            *

○警察官=長谷部に見せられたのち、その腕時計をふざけ半分に腕にはめる石川被告に対し、驚くことに誰一人として「いや、それはいかん」と"たしなめる"者はいなかった。この事実は、この時計が果たして被害品の時計であったのか、あるいは当時の証拠品手配書なる「重要品触」に載せるため参考品として借り受けた類似品であったのか判断することを難しくさせる。なぜかと言えば殺人事件の証拠品をその被疑者が取調中に素手で触れることはあり得ないからである。

   だが待てよ、この事件では被告人宅から万年筆が発見された際、本来なら捜査員が白手袋を着用し万年筆を押収、速やかにビニール袋へ収納するという警察学校の厳しい教えを軽く破り、あろうことか被告人の兄に素手で取らせているのである。

   これら重要証拠物に対する扱い方を見ると、腕時計や万年筆に第三者が安易に触れることをまったく警戒しておらず当時の捜査当局の証拠保全意識の低さを驚きをもって感じる次第である。