アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1332

狭山事件公判調書第二審4069丁〜】

自白論  その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』

                                                               弁護人=宮沢祥夫

                                            * 

(第三・『時計』の続き)

二、六月二十九日・三十日の両日、捜査当局が時計の捜査をした時はすでに時計は発見されていた。

  (一) 当審第二十五回公判における飯野源治証言は極めて奇異なものであった。飯野証言の趣旨は同僚四名くらいと六月二十九日、三十日の両日、一日二時間くらいを現場における時計の捜査に費やした。しかも捜査の範囲は中道のT字路の中心点から五メートルの範囲内の道路上および茶畑の中だけだった。万能という農具を借り茶畑の中を二畦くらい入った所まで捜したというのである。そのためT字路中心点から七メートルの所にあった時計を発見出来なかったという趣旨である。

  (二) しかし飯野証言は意識的な虚偽であることが明らかにされた。

   当審第四十五回公判における梅沢茂証言によると、「図面に基づいて」「狭山の方から川越の方に向かって道路の左側にお茶畑があり」その「道路」「道路境の茶の木」を「道路沿い」に「両側を、道路にして二十メーターや三十メーターの範囲を(注:1)、しかも「投げて届く付近まで」「棒を持って道路の下とか茶株の下辺りを覗いて見る」等、「相当念入りに」、石原、鹿野、増野、宇田川、鈴本、井上らと捜査は二時間に亘(わた)って行なわれているのである。

   また当審第四十六回公判における鈴木章証言によると「二、三日」「宇田川、石原、梅沢、鹿野」らと「四、五メートルの範囲」に亘って「道から畑に数メートル入った所まで」捜索しているのである。さらに当審第四十八回公判における石原安儀証言によると「六月末」の「二日間」、「時計は田中の駐在所の手前に入った三叉路になった辺りのT字路になった脇辺りに捨てたと指示されて」、「梅沢、鈴木、飯野、鹿野ら六人くらい」と共に捜索した。「三組くらい」に分けて「T字路になっているので右、左、前」に区分して「周辺の戸別の聞込み」と「捜索」をした。捜索の範囲は「東西に走る道路の西側部分」を「十メーターか二十メーター」で「草を掻き分けたり、日が経っているから埋まっちゃいないかという点も考慮して」捜索しているのである。

   このように見てくると、飯野源治が発見出来なかった時計の発見場所を含めた範囲について、十名程度の捜査員によって徹底的な捜査がなされていることは明らかである。

(続く)

注:1 原文にはカギカッコの閉じとなる記号"」"が見当たらない。そしてカギカッコで閉じられないまま調書の文章は新たに次のカギカッコの使用へと進んでいる。こういう文章を、もしジャーナリストの本多勝一氏が見たならば、猛烈にひどい絶望的文章と切り捨てるであろう。また別バージョンとして、文章中に突如カギカッコの閉じ記号"」"が現われ、慌ててこれの相方となるカッコ、"「"を探すも、それはどこにも見当たらない場合がある。

   このように本件公判調書はカギカッコ記号が二つ揃い、問題なく完結されているかどうかまで確認を強いてくるのである。

                                            *

   ○「冤罪の戦後史」に満足し本箱へ戻すが、まあその冤罪事件の多いことに改めて驚く。これは推測に過ぎないが、冤罪を明らかにしこういった書籍化までされ衆目を集めた事件は全体のごく一部であろう。その多くは誰の目にも触れず泣寝入りを余儀なくされ世間から忘れ去られたことは間違いない。