【狭山事件公判調書第二審4068丁〜】
自白論 その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』
弁護人=宮沢祥夫
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(第三・『時計』の続き)
(三) 被告人の供述は、強い雷雨に関する記憶と結びついている。それは特異な経験を基礎とする供述である。六月二十日以降七月二日までの間に午后になって強い雷雨のあった日は、弁護人が証拠として提出した熊谷地方気象台川越観測所の観測結果によれば六月二十九日と三十日の両日だけであり、航空自衛隊入間基地指令=中村雅郎の照会回答書をみても基地付近はほぼ同様の結果を示している。特に二十九日の雨量は最も多いのであって、一日の降水量は川越で三十三ミリ、入間基地で二十八・八ミリを示している。しかし三十日午后の雨量は二十九日に比較してずっと少量である。
右の被告人の供述から見るならば、被告人が田中の方に時計を捨てたと言って時計の形状を図示し、捨てた場所の地図を書いたのは六月二十九日と見るのが合理的である。
しかも、六月二十四日付青木調書添付図面に書き込まれた日付を見ると六月二十九日となっているのであり、青木調書の作成日時に対する疑問と共に被告人の当公判廷における供述が真実であることを明らかにするものであって、被告人が六月二十四日に自供したものでないことは極めて明確となっている。
さらにこれを根拠付けるものとして考えなければならないことは警察官の捜査との関係である。
捜査当局は六月二十四日、田中方面に時計を捨てたとの自供を得ていながら、ただちに捜査を行なっていないのである。検査官(原文ママ)は、冒頭陳述で六月二十九日から捜査を開始したといい、原審小島証人も六月二十九日から腕時計の捜査を開始したと証言しているのである。捜査当局が最も深い関心を持っていた筈の自供が得られてから五日間もなぜ時計を捜査しなかったか。
捜査当局が鞄・万年筆の自供を(この付近から印字不鮮明により写真参照のこと)
・・・ものである。
(続く)
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○この場に引用している公判調書の内容は、図書館で複写した部落解放同盟による出版物「狭山事件公判調書」を基にしているが、そもそもこれがなぜ出版されたかといえば、部落解放同盟が事件の冤罪を主張し、その根拠となる公判内容を一般に公開することで世論を動かし、再審請求を促す狙いがあったためである。
一般人が裁判記録に触れることができることは稀であり、この狭山事件公判調書を出版するという大胆な行動を取った同盟はその意味では誠に正しかったと評価されてよいと思われる。
出版された公判調書は、原本の写しという位置付けになるが、当時の複写技術を考えると、今回のような印刷された文字が不鮮明という状態を避けることは難しいことだったのかも知れない。
写真の、霞んだ文字を凝視し、そこに何が書かれているのかを推察する行為は何か虚しいものだが、グーグルレンズですら無反応を示す以上、もはや打つ手はない。
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さて、深く読み終えた「冤罪の戦後史」であるが、拷問王=紅林の暗躍はともかく、我が頭には次の一文が残る。「紅林に限らず警察官が、数多(あまた)の事件で公判廷に証人として呼ばれたとき、実に白々しい嘘を吐くという事実はある。あたかもそれが職務の一部であるかのように、だ」
・・・・・・おお、これはそのままそっくり狭山裁判にも言えるではないか。それどころか、この書で明らかにされている冤罪捜査の問題点が全て狭山事件に当てはまることは何を意味しているのか。うっすらと、狭山事件の黒い闇が晴れそうな、そんな読後感を得た。
本書では拷問王=紅林麻雄の人脈にも触れており、それを読むとこの拷問王には門下生が存在し、独り立ちした弟子たちがさらなる拷問捜査を展開していった可能性を示唆している。今でもどこかに紅林の遺伝子を持つ警察官が活躍していると考えると日常生活もままならず、油断は禁物であるな。