【狭山事件公判調書第二審4065丁〜】
自白論 その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』
弁護人=宮沢祥夫
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(四) 万年筆は果たして被害者の所持品であったかは疑問である。被害品とされる万年筆は被告人宅から発見されている。しかしながら、この万年筆が果たして被害者のものであるかは疑問である。
万年筆が被害者のものとされるのは、原審:中田健治、登美恵の証言があるに過ぎないのであって、外見上そうである旨の供述が共通しているのである。そうして被害者のものであることをはっきりさせるために保証書を探した旨の中田健治の供述がある。
ところで万年筆については原審に保証書が一通証拠として提出されているが、保証書は二通あった。その番号は続いていたのであってその一通である(当審第四十六回公判:鈴木章証言)。
保証書が二通あることは、万年筆が二本あったことを示すものであり、どの一本が被害品であるかは明らかにされていないところである。
しかも万年筆は同型同種のものがメーカーによって多数製造されているところであって、その同一性の特定がなされていないのである。この証拠調べは更になされる必要がある。
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(ほう、保証書が二通あり、すなわち万年筆は二本存在したとな。これは狭山事件関連の書籍にも載っていなかった事実であり初耳である。となるとこの二つの万年筆と保証書とがそれぞれ完全に合致していることを証明した上で、さらに発見された万年筆と提出された保証書が吻合することを捜査側は立証しなければならないと思われるが、老生の記憶によれば当局はそのような煩雑な手間は省いている。・・・と思う)
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第三、 『時計』
一、被告人が時計について自供したのは六月二十四日ではない。
(一) 六月二十四日付青木調書に初めて時計の形状についての供述がなされ、時計の図面が添付され、さらにその時計は狭山市田中あたりで捨てたという供述とその地図が添付されている。そうして時計は小川松五郎老人(当時七十八才)によって七月二日午前十一時頃、茶畑に沿った道端の茶株のところから発見されたことになっている。しかし被告人は当審公判廷において、警察官から時計について取調べられ時計を捨てた場所の地図を考えながら書いたのは六月二十四日ではなく六月二十七日頃である旨供述している。
(二) ところで、時計に関して自供を始めた日時について、六月二十七日頃であるとする被告人の供述は、被告人の特異な経験と結びついていることである。被告人は当審第二十六回公判において中田主任弁護人の尋問に答えて次のとおり供述している。
中田弁護人=「その後、自分一人でやったというように供述を変えましたね」
被告人=「はい」
中田弁護人=「それは二十六日前後ということになりますか」
被告人=「はい」
中田弁護人=「一人でやったというように言ってから、長谷部さんから時計を見せられたことがありますね」
被告人=「はい」
中田弁護人=「それは一人でやったと言い出してから何日ぐらい経ってからですか」
被告人=「一日か二日ぐらいだと思います」
中田弁護人=「地図を書いたのはいつ頃ですか」
被告人=「その地図を書いたのは二十七日頃だと思います」
中田弁護人=「一人でやったと言い出してからすぐですね」
被告人=「そうです」
中田弁護人=「時計を見せられた日と地図を書いた日の前後関係はどうですか」
被告人=「地図を書いた日の次の日の夕方、時計を見せられたと思います」
中田弁護人=「地図を書いた日について特に覚えていることがありますか」
被告人=「その地図を書いた日は雨がずいぶん降って来ました」
中田弁護人=「いつ頃から降って来たのですか」
被告人=「夕方からだと思います。雷がもの凄く鳴って来て、手錠を掛けていたものだから、それを外してやろうかと言って片方だけ外してくれたのです。片方は書き物をするのでいつも外していて、いつも片方しか掛けてなかったのですが、それを外してくれたわけです。それから、いつも調べている所が雨が降るので弁護士さんと面会する所へ移ったのを記憶しています」
中田弁護人=「雨が降り出して雷が鳴って来たというのは調べを受けているときですか」
被告人=「そうです」
中田弁護人=「そういうことがあった翌日、時計を見せられたという記憶なのですね」
被告人=「そうです。自分でもその時計をはめて見ました」
(続く)
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○ここでは、石川被告人が時計について自供した日付を問題にしているわけだが、そもそも石川被告は事件とは何ら関係はなく、時計に関する自供も虚偽・架空の話なのだ。つまり架空の話という前提の上でしかし、時計を捨てたと供述していることは事実であるから、その供述した日付はいつなのかを弁護士が特定を試みている状況、と認識してよいだろうか。そしてその実際に供述した日付は二十七日であり青木調書に記載されている二十四日は誤りであると、こういう解釈でよいだろうか。いや違うだろうか。
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「冤罪の戦後史」を読書中であるが、拷問王と呼ばれた紅林麻雄(元静岡県警本部強力犯捜査主任)が、その非人間的な捜査手法を用い関与した主な事件は四件とされる(あくまで「主な」事件であるが)。事件名とその問題点は次の通り。
幸浦事件=作られた証拠
仁保事件=作られた証拠
小島事件=拷問捜査
島田事件=凶器の捏造
警部補時代の紅林と対談を交わしたことがある清瀬一郎(弁護士) は当時、名捜査主任と呼ばれた彼がこう説明するのを聞いている。『相当多数の難事件を手がけたが、自分の扱った事件が裁判で崩れたことはない』と。
彼の説明はつまり相当な数の冤罪被害者が泣寝入りを強いられていた可能性を物語るものだ。
仁保事件で紅林は捜査員を集めこう指示している。『幸浦事件では被告に傷が付いたため、やかましく言われ出した、この被告(仁保事件の容疑者)は犯人に相違ないが正直に言う人間ではないから、相当にヤキを入れなければならない、しかし幸浦の時のように傷を残してはならないから、この点は注意せよ』
だが、立て続けに彼の手がけた事件には無罪判決が下され、然(さ)しもの拷問王も意気消沈、酒浸りの末に昭和三十八年急死する。五十五歳であった。