【狭山事件公判調書第二審4064丁〜】
自白論 その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』
弁護人=宮沢祥夫
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(三) 万年筆から検出された指紋が不明であったことは何を意味するか。
当審において、埼玉県警鑑識課警察主事=新井実の「指紋印象の有無検査結果について」の報告書、並びにその証言が公判廷に提出された。その結果、万年筆から指紋が三ヶ採取されたが、特徴点が不明のため、その対象者を検出することは不可能であったことが明らかにされた。
万年筆が発見された第三回目の被告人宅の捜索は、小島朝政、将田政二、小沼二郎の三人だけで行った。そうして兄=六造に小島朝政が指示して鴨居のところを捜させ、裸の万年筆を取り出させたことになっている。このやり方は現場で小島朝政が思い付いてやったと証言している。万年筆にはプラスチック、金属部分があるので、もしこの万年筆が被害者善枝の指紋は勿論、あるいは犯人の指紋など、いずれにせよ捜査上きわめて貴重な指紋が検出される可能性を持っていた筈である。しかるに捜査の鉄則に反するこの無造作な捜査のやり方はどうしたことであろうか。
案の定、指紋は三ヶ検出されたが、それを特定するに足りる特徴が検出出来なかったのである(当審第三十九回公判:新井証言)。
小島朝政らの捜索の方法は、指紋が本来つきよい万年筆について、指紋のつくことを避けるためになされたものと言わなければならないのであって、新井証言はそれを言い逃れするために、使用されている万年筆には脂肪等が付着して検出を妨げる場合がある旨の説明がなされている。しかし他方、万年筆はある程度使った後、長く放置した場合には、脂肪には水分も多少あるから水分が蒸発して乾燥すると指紋の検出が困難な場合とやり易い場合がある旨証言している。
それ故に尚更、捜査の際には慎重にしなければならないのであって、小島朝政らはそのことについて警察官として充分な認識を持っていた筈である。
かくして検出された指紋についてそれを特定するに足りる特徴が検出されなかったのは、捜査を担当した小島朝政の作為によるものであることを逆に示すものである。
もし万年筆の捜索方法を指紋検出を予定して慎重に行なっていたならば、指紋は破壊されることなく、予想外の結果が生まれたことは明らかである。小島朝政ら警察当局はそのことを知っており、指紋の検出を妨げたとしか考えられない疑問をこのことは示している。特に本件における物証からは指紋の検出がなされた証拠は全くないところであって、このこともまた不思議なことであり、捜査に当たった警察当局の作為を充分に推測しうることの一つである。
(続く)
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○宮沢弁護人は、指紋を破壊しないよう慎重に万年筆の捜索を行なっていれば予想外の結果が生まれたことは明らかと言うが、これはまさか押収した万年筆から関源三巡査の指紋が検出されたかも知れないという意味ではあるまいな。
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今読み進めている「冤罪の戦後史」であるが、昭和二十三年〜三十年にかけて発生した、のちに冤罪と判明する事件の捜査を手がけた紅林麻雄警部について、本書ではとりわけ詳細に語られている。
拷問王=紅林麻雄は昭和六年に静岡県巡査となり捜査畑を歩いてきたが、その彼が名刑事として脚光を浴びたのは昭和十六年、浜松で起きた連続四件の殺人傷害・強盗事件いわゆる浜松事件以後である。
浜松事件とは当時、近隣の町村までパニック状態に陥れたほどの大事件であったことから、こののち、犯人を検挙後に国から表彰されることとなる。さて、逮捕のいきさつは、県警刑事課長が間違えて逮捕した男の供述によりその弟が真犯人と判明したというのが真相なのだが、本来の功績者である刑事課長は申請書を書く立場にあり自分の名を書くわけにいかず、ここで当時浜松署の部長刑事だった紅林が表彰されることになった。"棚から牡丹餅"を地で行く話だが、労せず彼は県警の係長へと栄転する。そして、この頃から紅林自身は各所で「浜松事件をあげたのは俺だ」と誇示し始めるのである。
写真の人物が紅林麻雄警部=元静岡県警本部強力犯罪捜査主任。「冤罪の戦後史」より引用。