【狭山事件公判調書第二審4042丁〜】
「逆吊りはありえない」
弁護人=木村 靖
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(1) 中田善枝の死体自体について考察する、 のb、鑑定人五十嵐勝爾の本審第五十三回公判廷証言の続き。
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さらに第五十四回公判では同じ中田弁護人の「死斑の状況から死体の置かれていた状況を推測することは可能か」という問いに「四時間ないし六時間ぐらい死体が一定地に放置されていて死斑が発生したあと体位の変換があった場合、たとえば仰向けだったのを裏返しにしたような場合には、一度出来た死斑は完全に消失しない」と答え、さらに「背中に死斑が出ているのはうつ伏せになる前に、かなり長い間仰向けの姿勢を取られていたのではないかと思う」と証言している。
とするならば「死体は穴の底に頭部を南方に向けうつ伏せの状態で発見された」という大野喜平作成の実況見分調書にあるような状態になる前に、すなわち死体がうつ伏せになる以前に四〜六時間ぐらい仰向けの状態になっていたことになる。とすればこのような状態はどこでなされたのであろうか。
この点の自白は全くない。仮にどこかでなされたとすれば、今度は死体を二、三時間芋穴に逆吊りしておいたという時間はなくなってしまう。結局、この証言から導き出される結果は逆吊りはなかったということである。さらに「この死体が或る時間二、三時間逆吊りになっていた状況があったという風に考えられるか」という問いに「私には考えられません」と言い切った上、「その証拠として顔面には頸部のチアノーゼはあったが、黒い斑点が見られない」と証言している。
c. 以上の上田鑑定書、五十嵐証言は中田善枝の死体が逆吊りされなかったことを中田善枝の死体をもって科学的に裏付けるものであって、この部分の被告人の自白が事実と異なること、すなわち虚偽であることを明らかにしたものである。
(2) 次に芋穴自体について考察すると
a. まず五月一日以前の芋穴の状況についてであるが、原審の新井千吉・高橋乙彦の各証言によれば本件芋穴の所有者:新井千吉は昭和三十八年三月二十日頃、貯蔵してあった芋を引きあげ芋穴を空にした。その際、芋穴の中は腐敗物などが残らないように手できれいに掃除し何一つ残っていなかった。そしてコンクリート製の蓋をぴったり閉めておいた。その後、新井千吉は三日に一っぺんくらいは芋穴の蓋が開いているか見に行き、四月二十七日に芋穴のある畑に出て調べた時も穴の蓋はきちんと閉まっていたというのである。
b. 次に五月四日の芋穴の状況についてであるが、原審新井千吉の証言によると、死体の発見された五月四日、芋穴の底に降りてみたところ、穴の中は三月二十四日にきれいにしておいた時と別に変わったところはなかった。また、穴の蓋の付近その他にも特別変わったようなことはなかったという。原審 高橋乙彦の証言によると芋穴のをよく捜査したと言い、その結果、中には棒切れとビニールの風呂敷しか発見出来なかったという。
そして大野喜平作成の死体発見現場に関する実況見分調書によると「死体発見現場近くの芋穴から善枝の所持品であると言われているビニールの風呂敷一枚と棍棒一本が発見された」となっている。
c. 以上の事実を総合すれば、三月二十日から五月四日の間で、芋穴の中及び蓋の付近が変わっていたのはビニールの風呂敷一枚と棍棒一本が芋穴の中に入り込んでいただけであるということになる。結局、芋穴自体には死体の逆吊りを思わせる痕跡は何一つ見つからなかった。すなわち芋穴自体は死体の逆吊りを一切語らないということになる。
d.仮に死体が五月一日の夕方、雨の降る中で芋穴に逆吊りされ、後で引上げられたとするならば、
第一に死体の上げ下ろしを行なったという芋穴の北側の壁および縁に何らかの痕跡、例えば荒縄の擦れた跡とか荒縄の屑が付着しているとか、壁に何か擦れた跡があるとかが残っていてもよいはずである。
第二に芋穴の底にも何らかの変化があって然るべきである。例えば荒縄の屑が落ちているとか、ボタンその他の異物が落ちているとか。
さらには逆吊りされたとするならば、善枝の頭部にある生前に受けたという傷から流れたと思われる血痕とかが発見されて然るべきである。ところが、これの血痕が芋穴の底から発見されたという証拠は一切ない。
(続く)
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○さて、弁護人=木村 靖による弁論は中々の鋭さを見せ、この弁論をもってしてなぜ石川被告の無罪を勝ち取れなかったのかと腑に落ちないものがある。
今、引用中の公判廷の模様は昭和四十七年、東京高裁における弁護人らの弁論であるが、この一年前、狭山事件が発生する二ヶ月前に東京・入谷で起きた吉展ちゃん事件の犯人、小原 保の死刑執行が昭和四十六年、東京拘置所においてなされている。
起訴から六年という異例の短期間で死刑執行されたという報道は当然、国民の吉展ちゃんの死に対する悲しみや、これを許した捜査当局への怒りが再発しかねない状況へ向かいつつあったと思われる。
ここで、犯人取り逃がしという共通項を持つ狭山事件の判決が「被告人は無罪」と下された場合、当時の国民的感情(今に比べ感動的にヒューマニズムにあふれていた。注:1)は両事件に対する警察・検察及び裁判所への批判、それは想像できぬほどの規模で放たれ、彼等に猛烈な打撃を与えることになることは想像に難くない。したがって狭山事件第二審の有罪判決とは、彼等の威信回復に靡(なび)いた裁判官の判断が働いてたのではなかろうか。
(注:1)昭和四十九年九月に行なわれた石川被告の最終意見陳述に際し十一万人もの人々が日比谷公園での集会に訪れた模様である。熱い。
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ところでこの写真の中央やや左に芋穴の蓋が見え、右端の木は桑の木である。芋穴に被害者を逆吊りにし、その紐の端を桑の木に結んだ。すると、芋穴の縁と桑の木のどこかにその紐を結んだ痕跡が残ったかどうか。そしてこの時、芋穴の蓋を閉めたかどうかなどについての石川被告の供述は確認できないままである。