アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1309

狭山事件公判調書第二審4030丁〜】

「強姦・殺害・死体処理に関する自白の虚偽」⑬

                                                                弁護人:橋本紀徳

                                            *

                     八、欠けているボタンの行方

(一) 五月四日付大野喜平作成の実況見分調書によると、被害者の着用していた「上着のシングル三ツボタンのうち、上より第一、第二のボタン二ヶが脱落していた」と記載されており、同調書添付写真第三十八号によってこのことが確認されている。

   これについて被告人の七月三日付警察官調書は、次のように述べている。

   「私が善枝ちゃんを捕まえた時は服のボタンは前に一列に付いていてボタンをかけていたと思います。それから私が善枝ちゃんを殺して、この前話したように杉の木の根元から穴ぐらのところまで運ぶ時には、善枝ちゃんの身体を仰向けにして、頭が私の右手の方に、足の方を私の左手で支えるようにして前へ提げるように抱いて運んだのですが、私はその時善枝ちゃんが着ていた服のボタンはかけてあったと思います。もしその時ボタンが外れてあれば服がダラリと下がるはずですが、その時は下がっていなかったと思います」

   七月八日付原検察官調書では次のように述べている。

   「善枝ちゃんの身体は穴の壁に擦れながら引上げられたわけです。善枝ちゃんの身体が穴の外に半分くらい出た頃、制服の上着を掴んで引っ張った様に思います。上着のボタンが千切れているかどうか知りませんが、千切れているとすればその時だと思います。それ以外の時にはボタンが千切れるほど上着を引っ張ったことはありません」

(二)  一見すると、これでボタン問題は全て解決されたかのようにみえる。

   つまりボタンは芋穴に死体を運ぶまでは付いていた、おそらく芋穴から引上げる際に千切れたのであろうと。

   しかし、もしそうだとすると、ボタンは当然芋穴もしくは芋穴の周辺に落ちていなければならないということになる。

   ところが芋穴及びその周辺はもとより、死体埋没現場及びその周辺、その他、本件のどの関係場所からもボタンは発見されていないのである。芋穴の所有者:新井千吉の証言によれば、芋穴の内部はチリ一つ落ちていないようにきれいに清掃されていたという。もし芋穴の中にボタンが落ちていれば、捜査官は当然そのことに気づいたことであろう。それにも関わらずボタンは発見されなかった。

   当審第六十五回公判において、芋穴の第一発見者である機動隊分隊長:高橋乙彦は、芋穴から発見されたのは棒とビニール風呂敷のみであり、ボタンは見つからなかったと証言しているのである。

(三)  ボタンの問題など小さな問題である。

   しかし考えようによっては大きな問題であるかも知れない。自白からすれば芋穴またはその周辺で当然発見されて然るべきボタンがそこでは見つからない。その他どこでも見つかっていない。

   ここでもまた客観的事実と自白に述べられている事実とが合致せず、明らかに食い違っていることに気づいくのである。

   ボタンは自白と異なる別の場所、被告人の知らぬ別の場所で脱落したに違いない。そう考えなければボタンの行方の謎を解くことはできないであろう。

(続く)

                                            *

○橋本弁護人の鋭い指摘は、犯人とされた石川被告が、事件とは全く無関係であることを見事に知らしめている。しかしこの第二審の判決は被告に無期懲役が下されることとなり、ここへ来てようやく老生も寺尾裁判長のおかしな判決に首をひねりだした・・・。

   ・・・この狭山裁判のような案件は、もしアメリカ合衆国であれば即座に再審が決定するだろうな、などと考えつつ、押入れに詰めてある古本の整理に精を出す。

(確かこの右奥の真ん中辺りにあるはずだが・・・)

   ディープ パープルのボーカリスト、イアン=ギランが、アルバム「マシン ヘッド」制作の頃、アイザックアシモフを愛読していたという情報をきっかけに、家にあるアシモフ本は今どれほどの価値があるか気になり出した・・・。

   とりあえずこの五冊を発見できた。もちろん難しそうなので読んではいない。これらはやはり東村山の「なごやか文庫」で一冊二百円ほどで購入した記憶がある。

   掘り出し作業に疲れ、ひとまず今日はこれまでとし、ぜひ高値になっていてくれと念じ、低級で品位のない己の心を恥ながら床につく。

                                            *

アシモフとは。

アイザック・アシモフ1920年ソ連に生まれ、3才のとき両親と妹とともに米国に移住、帰化し、ニューヨーク州ブルックリンのハイスクールを卒業した。1939年にコロンビア大学を卒業し、1948年に理学博士(Ph.D)になった。 大学では化学を専攻し、博士号は生化学の研究でとったものである。1949年からボストン大学医学部に所属し、現在助教授の肩書きをもっている。

アシモフは12才のときから執筆をはじめた。「9才のときからサイエンス ・フィクション (SF)を読みはじめ、次第に自分のものを書きたくなった。 そして自分で書きはじめた。」と言っている。現在では自然科学啓蒙書、SF、歴史関係の本を100冊近く発表し、科 学作家・SF作家の第一人者として名実ともに世界に認められている。

アシモフ夫妻はマサチュセッツ州に2人の子供と住んでいる。