【狭山事件公判調書第二審4012丁〜】
「強姦・殺害・死体処理に関する自白の虚偽」④
弁護人:橋本紀徳
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(九) こうして殺害方法に関する自白は、ことごとく死体に残る痕跡と一致しないことが明らかにされた。このことは、本件自白の信憑性を根底からくつがえすものであり、全白白の虚偽性を明らかにするうえでも決定的な意味を持つものと考える。
最後に注意を要するのは、自白の変貌とも呼ぶべき自白内容の大きな変更である。たとえば、六月二十三日の段階では、タオルで締めて殺したという供述が、わずか二日後の二十五日には、首を上から押さえて殺したというように変更される。
このように、変更することがすでに大きな問題であるが、なぜこうも大きく変わるのか、その理由については少しも説明されず、また取調官もその理由を尋ねようとしていない。
このような極端な自白の変貌は、それ自体自白の信憑性を大きくゆるがすものである。
また角度を変えてみると、単独犯行を認めた――つまりそれまでの三人共犯というでたらめな供述を改め、これからはすべて正直に申し上げるという態度を示した最初の白白に、タオルで絞め殺したと述べたということは極めて重大であると言わなければならない。なんら作為を加えることなく、任意に述べたという最初の自白に客観的事実と明白な食い違いが存在するということは、まさに供述者が客観的事実が何であるかを知らなかったことを物語るものであり、タオルで絞殺をしたとの自白は、捜査官に迫られてやむなくした当推量(あてずいりょう)の供述であることをしめすものであるからである。
仮に、被告人が真実本件の犯人で殺害の方法をよく知っていたとすれば、わざわざ事実に反して、タオルで締めたなどという供述をする筈はなかろう。それにもかかわらず、被告人が最初の自白にタオルで締めたという供述をしたということは、被告人が、真実本件の殺害方法を知らず、当推量のうそを述べたものであることを明らかにしているのである。
殺害方法に関する自白は、このような自白相互の食い違いからも、その虚偽性をあらわにしているということができるのである。
三、死斑の状況は自白と一致するか
(一) 死斑の状況も自白と一致しない。
五十嵐、上田両鑑定人によると、死体の背面にも、明らかに死斑が存在するのであるが、自白の死体処理に関する方法からでは、この背面に存在する死斑を十分説明することができない。
死斑とは、言うまでもなく、死後、重力の法則に従い、血液が死体の下側に位置する細血管内に沈下したことにより死体下側の皮膚表面に生じた淡赤色又は紫赤色の斑点を指す。一般に、死斑が生じるためには、死体は死後三時間ないし四時間、一定の姿勢を静穏に保つことを必要とする。(上田鑑定書(A)頂②)。
また、一旦生じた死斑が、その後の死体の体位転換によっても消失することなく残存するためには、四時間ないし六時間以上の経過時間を必要とするといわれている。(当審第五十四回公判五十嵐証言)。
したがって、これら死斑に関する法医学上の通説からすると、体背面に死斑の存在する本件の死体は、少なくとも、三時間以上はあおむけに置かれていたものであるということになる。
(二) ところが、自白によると、死体をあおむけにしたのは、殺害直後より芋穴に死体を逆吊りにするまでのあいだ、おおよそ一時間半ないし二時間にしかす過ぎないのである。仮に譲って多少大目にみたとしても、あおむけ時間はせいぜい二時間半である。これでは、死斑が生じるためにも、また一旦生じた死斑が、その後の死体の体位転換に耐えて残存するためにも、時間が足りなすぎる。
死斑の発現の状況と、死体処理の状況に関する自白とは、明らかに一致しないと言わざるを得ないのである。
検察官は当審に提出した昭和四十七年五月十日付意見書の中で、「被告人は、原審認定の如く、午后三時五十分頃被害者と出会って山へつれ込み、殺害後、一旦芋穴に死体を(仰向けに)かくし、午后七時三十分頃、中田家へ脅迫状を届けての帰り、スコッブを盗んで、午后九時頃農道に穴を掘って、死体を(うつぶせに)埋め直しているのであるから、死体の体位の転換を行った時間に徴して(注:1)死斑の状況と、死体処理の方法とは一致し、被告人の自白に何らの客観的事実との矛盾はない。」と主張するが、これはこの死体あおむけの時間を、殺害直後より農道に埋没するまでと大巾に延長するごまかしの議論をするからであって、死体あおむけは殺害直後より芋穴に逆吊りをするまでの間とみれば、検察官の右主張はたちまち崩壊するのである。
(続く)
注:1 「徴して(ちょうして)」=照らし合わせての意。
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○引用中の公判調書であるが、弁護人らは石川一雄被告は無罪であるという主張とその根拠を述べ始め、狭山裁判は、いよいよ佳境を迎えつつあるなと、すでに東京高裁が下した判決を知りながらも複雑な思いで読み進めているところである。
・・・息抜きに、押入れに詰めてある古本を整理する。
ああこういう本も買っていたなと懐かしむ。これは東村山の「なごやか文庫」から200円ぐらいで買った覚えがある。これを買った当時、老生は「なごやか文庫」の専従捜査員のごとく棚に張りついていた。みっちりと棚に並んだ古本に動きはないか、昨日と今日の棚に変化はないかと目を凝らす日々を送った。
「あなた、いつもここにいるね」
と声をかけてくれた方がおり、聞けばこの古本屋を管轄する施設(なごやか文庫は東村山市社会福祉センター内に設置)の館長さんであり、異常な頻度で出没する老生は逆に怪しまれていたのかも知れない。なおここでは年に一度、古本市が開催されており、その会場で老生は、古本屋巡りのブログで有名な「古本屋ツアー・イン・ジャパン」氏の姿を目撃している。
長くなるが、この際だからここへ記録しておこうと思う。
当時、「なごやか文庫」で行なわれていた古本市であるが、当日はその売場の範囲を拡張、通常の店舗に加え、となりの大広間まで使用し会場内は玉石混交の古本で埋め尽くされていた。特筆すべきは、大広間の会場に入ってすぐ右側に設置された、数台の古本棚(現在の古本市では消滅)にある。
この棚には、濃い茶色に変色し紙質も経年変化を遂げた、目をそむけたくなるような古い本が隙間なく詰め込まれ、新たな旅立ちを今か今かと待っているのだ。
会場へ訪れた一般客とは区別される、一部の病的な古本マニアが殺到するのはこの棚であり、妙な熱気を感じ緊張した係員が古本市のスタートを告げるやいなや、この古本病人らは極端な前傾姿勢で前述した棚へとむしゃぶりつくのであった・・・。おぞましく浅ましい、みじめで見っともない、落ちぶれた卑しい姿がそこかしこに見られ、棚の前は、常に飢えと渇きに苦しむ餓鬼の見本市の様相を呈することとなる。
とまあ、この古本市での小さな一幕を述べたわけだが、この棚の魅力については、くだんの"古本屋ツアー"氏もそのブログで触れており、現在はすっかり変わってしまった「なごやか文庫」に対しては、悲しい気持ちになるばかりである。
写真の「木曜日のとなり」(吉田とし=作、赤坂三好=画、初版帯付き)を調べると、中々の高値で取引されているようで、卑しいが昔の「なごやか文庫」に感謝する・・・。