アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1293

狭山事件公判調書第二審3992丁〜】

         弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)

「自白維持と部落差別の問題」⑤  弁護人=青木 英五郎

                                            *

   われわれの常識からは、おそらく理解することの困難な、このような被告の供述を、被告の立場に立って正しく理解するために、わたくしは部落差別の問題を提起しているのである。被告にとっては、"善枝さん殺し"の自白が、一審判決のいうような、死刑になるかも知れない重大犯罪であることの認識を伴うものではなかった、という事実を、われわれは認めなければならないのである。

   別件で逮捕された直後から"善枝さん殺し"の自白を強要され、自白しなければいつまでも出してもらえないと警察官から思い込まされた被告にとっては、"善枝さん殺し"の自白をすることが、十年で刑務所から出してもらうという、警察官との取引に過ぎなかったのである。

   もっとも、十年で出してやると言われても、彼が即座にその取引に応じたわけではない。「殺さないものを殺したなんて言うと家のお父ちゃんが可哀想だと思って、迷っていた」と彼は述べている。被告がこのように困惑した状態にあった時に、自白の攻め道具として利用されたのが、彼の関巡査部長に対する信頼関係であった。警察側はそのような意図をもって、被告の身柄が狭山署から川越署へ移されると同時に、関巡査部長を取調べの補助として送り込んでいた。竹内武雄(狭山署長)証人はその理由を「うちの関部長が一番、取調べというより本人をほぐすには適当であろうというわけです」とか、「関部長なら、ほかの捜査員よりかもっと真実が発見できるだろう」と述べている(当審四十一回公判)。

   日付の点と、自白に至るまでの二人の会話に被告の供述と違いはあるにしても、関巡査部長が被告と面接して手を握りあって泣いたこと、それから被告が三人共犯の自供を始めたこと、については、関証人の証言でも述べられている(当審六回公判)。被告の当審での供述を要約した「手記」の中から、二人の出会いの場面を引用してみる。

   「六月二十三日頃、絶食(ハンスト)を始めて三、四日経ったとき、長谷部らが"いま関さんが来ると電話がかかってきた。善枝さんを殺したと、関さんかどっちでもいいから話せ。十年ということは約束するから"と言った。関さんが、"署長さんから、三人でやったことを聞きに行ってこいと言われてきた"と言って入って来た。長谷部は"いま出てしまうから、話しづらかったら関さんに話してくれ"と言った。関さんが私の手を握って泣いてしまった。"話さなければ帰るぞ、善枝さんを殺したことを話さなければ帰るぞ"と泣いた。それから長谷部が"さっきの約束は間違いない"と言って出ていった。関はまた、"話さないのか"と泣き、それでおれも泣きながら"三人でやった"ということを話した」

   "弁護人に対する信頼感を失い、孤立無援の状況にあった被告は、このようにして彼の尊敬し信頼する関巡査部長の泣き落としにかかったのである。この泣き落としは、部落差別を原因とする信頼関係が百パーセントに利用されたという意味において、もっとも悪質な部落差別が行なわれたものといえるであろう"

   「たとえその目的が私をうまく騙すための警察の手段であったとは申せ、私にとっては(関さんは)地獄で仏の顔を見たように懐かしいものとして映ったのでした。責めるだけ責められ、誰一人としてやさしい言葉一つかけてくれるわけではない中で、たった一人の関さんが私の身を案じ、家族のことを伝えてくれたりして私を励ましてくれるのでした。しかもその人が私と一緒に野球をしていた人ですから、どうして疑ったり出来ましょうか。私にはそれほど考える余裕も知恵も当時はありませんでした」

   被告は、その当時の心境をこのように語っている(「手記」による)。部落の青少年たちは、ひとたび人を信じると、どのような障碍があろうとも、また自分に不利益なことがあろうとも、その信じる人を絶対に疑わないという純真さを持っているということを、被告のこの言葉から理解してもらいたい。しかもこの信頼関係は、後にみるように一審の死刑判決後、被告が東京拘置所へ移監されてからも続いていたのである。

(続く)