アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1291

狭山事件公判調書第二審3989丁〜】

         弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)

「自白維持と部落差別の問題」③  弁護人=青木 英五郎

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    ここに引用した見解を前提として、被告の自白維持の問題を検討する。この説明によって恐らくわれわれも「差別される側」に立ってこの問題を見ることができるであろう。もっとも、真実、「差別される側」にある人びとは、このような説明を飛び超えて、その差別を直に肌で感じとることができるのであろう。そのことが、この事件を"狭山差別裁判"として捉える根拠であろうし、また、それゆえに、百数十万名にのぼる公正裁判要請の署名がなされているのでもある。

   そこで、この事件において警察側がいかに部落差別を利用したかを見ることにする。戦前、戦後を通じて、いわゆる融和政策のための部落と警察とのつながりは、その末端においては、所轄駐在所勤務の警察官によって保たれていた。この事件では、菅原四丁目を管轄する駐在所勤務の関巡査部長が、その役割を果たしている。被告と同巡査部長との結びつきは、被告の加入している青年団が、菅原四丁目の小・中学生を集めて野球のチームを作ったことがきっかけである。被告人が述べているように、そこへ関部長がはいってきた。事件当時の狭山警察署長竹内武雄の証言によれば、それは、警察官という立場から少年補導を目的とするものであった(当審四十一回公判)。しかし被告は、極めて純真な気持ちでそれを受けとめている(以下は被告の「手記」による)。

   「その頃、私たちの青年団の趣旨に共鳴して初めて関源三さんが参加し出したのでした。関さんは野球がとても詳しく、私たち青年団の先頭になって常に積極的に指導の役目を引き受けてくれるのでした。日曜ごとに出向いてきてくれる関さんを青年団の中から三、四人が応援し、手助けをし、入間川や入曾の小学校の校庭を一日じゅう貸してもらっては練習に練習を重ね、子どもたちと共にそれは実に楽しい思い出でありました」

   このようにして、事件発生当時まで、被告と関巡査部長との間には、野球を媒介として、被告の言葉を借りれば「良き指導者としての関さんを尊敬し、親しみも覚える」という信頼関係が続いていたのである。

   「学校の校庭が借りられない時は、グランドを所有している会社などにお願いしてまでも、日曜ごとの練習と関さんの指導は続いたのでした。そして関さんを通して、私たち青年団が、指導した技術がどの程度進歩したかを知るために、毎年五回から六回くらい、四丁目の子どもたちを集め、野球大会を行なうのでした。この大会が行なわれる時は、菅原四丁目でよく買いにゆく商店などから石けん、タオル、ノート、鉛筆などの商品が、試合の勝負に関わらずたくさん出されるので、子どもたちも真剣に一生懸命にプレーをするのでした・・・・・・・・・関さんはそんなときは必ず審判を務めてくれるのでした。」

   彼は、このように述べている。

(続く)

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○引用中の文章は、青木英五郎という弁護士の狭山裁判における弁論であるが、調べてみると、この方は冤罪に関して(冤罪だけではないが)壮絶な活躍をされた、伝説的弁護士とみて間違いない人物であることが判明する・・・。

   青木英五郎と冤罪事件

『新刑事訴訟法は昭和24(1949)年1月1日に施行されたが、捜査機関の自白に頼る体質は改善されず多くの著名冤罪事件が発生した。

青木英五郎は昭和9年に京都帝国大学法学部を卒業して裁判官となったが、「八海事件」(強盗殺人事件)で、最高裁が、昭和37年に広島高裁の被告人4名の無罪判決を差し戻したことに義憤を感じ、同年7月裁判官を退官して、弁護人となり、昭和43(1968)年10月、第3次上告審で全員無罪の判決を勝ち取った。事件発生から17年有余経過していた。さらに、「仁保事件」(強盗殺人事件)の弁護団長として尽力し、最高裁で、昭和45(1970)年7月に破棄差し戻しさせたうえ、昭和47(1972)年12月に広島高裁で無罪判決を勝ち取った。事件発生から、18年経過していた。

仁保事件に取り組んでいた頃は、事務所経営は全く火の車で、毎月末の支払いにも事欠く始末であったという』

   ・・・青木英五郎のような御大が狭山事件に関わっていた事実は、この事件の被告人、すなわち石川一雄は犯人ではなく、したがって判決は誤判であった可能性が高いことをうかがわせる。