【狭山事件公判調書第二審3985丁〜】
弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)
「自白維持と部落差別の問題」② 弁護人=青木 英五郎
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被告の社会常識の欠落が、一方では捜査段階から控訴審のはじめに至るまでの間、弁護人に対する信頼感の喪失の原因となり、他方においては関源三巡査部長に対する異常なまでの信頼感につながっているのである。
被告が中田弁護士をはじめとして、彼の弁護人たちをいささかも信用していなかったことは、中田主任弁護人の当審における証言と被告自身の供述によって、極めて明瞭に示されている。彼は、それについて後につぎのように述べている(「手記」による)。
「私は自分が逮捕され、警察に勾留されている時に、自分のために弁護人が付いてくれたことがどういう意味があるのか、本当に分かっていなかったのです。どういう仕事をする人で、極端な言い方をするならば、自分にとって敵なのか味方なのかさえ、しばらくは分からなかったような状態にいたのであります」
敵、味方の区別がつかなかったというよりも、被告の場合は、敵、味方を転倒していたのである。彼は、味方である弁護人を信頼しないで、逆に彼を無実の罪に落とし入れようとする警察官を信用して、彼らの言うがままになっていた。このことは、原審において、被告人が自白しているにもかかわらず、弁護人が全面的に事実を争う、という普通には考えられない公判の進行状況からも、また、控訴審の冒頭で、被告が弁護人にも告げず、突然、犯行を否認し始めた、という客観的事実からも推測しうるのである。
問題は、なぜ被告が警察官の側を一方的に信用したか、特に記録上明らかなように、関巡査部長に対して異常なまでの信頼感を抱いていたかである。そらを理解するためには、われわれは、部落差別の問題、部落差別による人間の疎外の問題に立ち入らざるを得ない。しかも、その理解のためには、われわれは、「差別される側」に立たなければならない。ところで、はじめに述べたように、われわれが部落差別を受けた体験のない場合に、しかも「差別される側」に立とうと志向するならば、その体験を持つ人びと、あるいは部落差別の状況のなかで差別とたたかっている人びとの意見を求め、それらの人びとから教えを受ける以外には、われわれが「差別される側」に立って事実を見ることは不可能である。わたくし自身、この事件の弁護人となってから、多くの同和教育の専門家、また、部落問題の専門家について教えを受けてきた。以下に引用する平井氏の見解は、部落差別が青少年にもたらす精神的な影響について、それらの人たちの意見を集約したものと考えられる。
「普通では考えることのできない、部落の青年が持つ特有の精神現象を考えなければならない。
部落の子は、普通一般に、縁もゆかりもない他人に可愛いがられたり、愛(いと)しまれたりした経験に乏しいものである。このことも差別によるものであるが、部落の中で、血縁同志である人と人との間には、驚くほどの親愛関係が見られる。しかし、これが他人となると、よそよそしい冷たさが見られる。このことが、さらに部落以外の者に対するときは、差別からきびしく自己を守るために、一種の心理的警戒体制をとるという、そのような精神傾向がある。
ところが、このことが逆に作用して、特に部落外部の人たちが、商売の上とか、教育の上とか、その他、行政の上とかで、部落の人びとの信用を得たときは、それがさらに牢固として、抜くことのできないほどの強靭な、絶対的な、その人に対する尊敬と信頼にまで進む場合が、しばしば見られるのである。部落の青少年たちは、ひとたび人を信じると、どのような障碍があろうとも、また自分に不利益なことがあろうとも、その信じる人を絶対に疑わないという純真さをもっている。被告が関巡査に抱いていた心情は、正にそういう性質のものであったとみられるのである。"死刑"の宣告を受けてさえ、自分の周辺がおかしいとは気付かず、特定の人を信じているという被告の心情や行動は、部落問題に対する深い理解を持ち、部落差別が被告のような環境のもとに生育した青年に対して、どのような性格を与え、どのような心情を持たせるのかを、徹底的に掘り下げ検討しない限り、正しく知ることはできないのである。
ところで、これに関連して是非とも注意しなければならないことは、このように、ひとたび人を信じたとなると、正邪を論じないで、地獄の果てまでも、その人と共に歩こうとする、こういう部落の人びとの性情に乗じ、それを利用して、正にその信頼を裏切るような背信行為をする、そのような態度をとる部落外の人びとが往々にしてある、ということである。これは、最も悪質な部落差別である。しかし、このことは、その差別が悪質であればあるほど、その言動は巧妙であり、それを指摘することが困難である。さらに、その背信行為を、差別として立証することは、多くの場合、甚(はなは)だしく困難なのである」
(続く)
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○青木英五郎弁護人による弁論には感服である。なぜならば氏の優れた洞察力により、人間同志の複雑で難解、そしてそこに優劣の感情が入り混じる事象を分かりやすくわれわれに伝えている点が、なかなか凡人には出来ないからである。そして思うのは、法律面でその才気を発揮することが使命である弁護人が、差別問題を論じざるを得ない状況へと踏みこんでゆく様は、この狭山事件の深く黒い闇の度合いを物語っている。