アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1289

狭山事件公判調書第二審3985丁〜】

         弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)

「自白維持と部落差別の問題」①  弁護人=青木 英五郎

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   彼の生活は、昭和三十三年頃までがひどく苦しかった。食うか食われないか、という生活状態であったということである。一番苦しかったのは昭和二十五年頃までで、彼の記憶によると八歳から十歳くらいまでが特にひどかった。その当時はアカザ(注:1)なども食べていた、と語っている。

   つぎに、狭山地方における部落差別の状況について見ることにする。現在、この土地の人たちは、口を閉ざしてそれを語ろうとはしない。しかし、この地方での部落差別も、他の地方と差異はなかったのである。被告の語るところによれば、この地方では、部落民に対して「カアダンボ」という呼び名が用いられていた。また、土地の人は、「四丁目の人」とか「四丁目」(被告の居住地の菅原四丁目の略称)という言葉で、差別を表していた。彼が通学していた入間川小学校でも部落差別がなされていたし、同和教育のなかったその当時では、教師の側も部落の児童を放置していたということである。菅原四丁目から一キロほど離れた入曾の子供たちが、四丁目までやって来て被告たちに石を投げつけることも再三あった、と彼は語っている。彼の記憶に、もっとも深く残っている差別の傷跡は、千葉という理髪店で「お前はいつも汚いな、汚いのは当たり前だな"カアダンボ"だもんな」と言われたことである、とわたくしに語ったことがある。

   しかし、解放運動の立ち遅れていたこの地方では、部落差別に対する抗議も糾弾も行なわれることはなかったのである。被告は、この地方での差別の状況をつぎのように述べている(被告の「手記」から引用する)。

   「私が生まれ、育ってまいりました生家は、そのころ『特殊部落』といわれ、一般家庭とは何かと区別、差別され、疎外される状態の中にありました。大人たちは、ある種の諦めにも似た想いに、それらを甘受する生活に慣れ、自らの殻の中に閉じこもる生活状態にありました。子どもたちは、差別され、疎外されているいわれすら理解できず、大人たちの卑屈さをそのまま見習ってしまう環境にありました」

   むろん、この文章は、被告が控訴審になってから読み書きを学習し、部落問題に関心を持つようになって書かれたものである。

   この部落差別が、後に述べる被告の関源三巡査部長に対する特殊な信頼関係を生(せ)ぜしめる原因である。このような環境の中に生育し、働いて食べるのが精一杯の生活状態にあった被告が (成人してからは、青年としてのある程度の娯楽はもっていたにしても)平井氏の述べるように、「社会人としては、極めて低い精神年齢にあったことは間違いない」と言いうるのである。実際にも、彼がこの事件で逮捕されるまで、彼には遊び友達はあっても、社会人としての知識あるいは常識を教えてくれるような人は、ひとりもいなかった。彼は読み書きは不得意でもあったし嫌いでもあった。彼の警察官調書(38・6・9)には、新聞を見るのは競輪の欄だけ、それも競輪選手の名前は読めない、とか、何回か新聞を買ったが記事を読むことはなく、テレビの番組を見るためであった。また、「平凡」という雑誌を買ったが、それを読むつもりではなく、女の写真などを見るつもりでした、などと書かれてある。霜田杉蔵証人も、浦和拘置所時代の被告人は読み書きは達者ではなく、彼の希望でマンガのような本を与えていた、と証言している。○(不鮮明:写真参照)略ではあるが、これまで述べたような被告の人間形成の過程を知ることが、彼の自白維持の原因を理解する前提条件である。

(続く)

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写真は、調書中の不鮮明な文字。二文字目は「略」であることが分かるが、問題は最初の文字である。

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注:1 「アカザ」アカザは、ヒユ科アカザ属の一年草。畑の縁や空地などに多い雑草。繁殖力が強く、草丈2メートルほどになる。古くから食用雑草、民間薬として利用されている。