【狭山事件公判調書第二審3978丁〜】
弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)
「自白維持と部落差別の問題」 弁護人=青木 英五郎
*
なぜ、この事件が"狭山差別裁判"と呼ばれているのか、つまり、この事件が部落差別とどのようなつながりを持っているのか、それを解明することによって、なぜ被告が一審公判の最後まで虚偽の自白を維持し続けたのか、それを明らかにすることができる。
そのことを理解するための前提として、われわれは、まず「差別する側」と「差別される側」との基本的な関係を明らかにしなければならない。裁判官、検察官を含めて、われわれが「あなたは差別意識をもっているか」と問われた場合、おそらくは誰もがそれを否定するであろう。しかし、それは観念のうえでのことである。観念的には、あるいは主観的には差別意識をもっていないからといって、現実に部落差別の問題に出会った場合、差別される側の人々と同様に、それを受けとめられるということには、必ずしもなり得ないのである。それは、部落出身者でないかぎり、部落差別をされた体験をもっていないからである。差別をされた体験をもたない人々にとっては、その体験のないことについて根本的な自己反省をしない限り、むしろ現実には、意識するとしないとに関わらず、「差別する側」に立ってしまうことが多いのである。そして、「差別する側」に立つならば、この事件について、被告の立場を正当に理解することは出来ない。公正な判断をするためには、「差別される側」に立って、その視点からこの事件を見なければならないのである。
戦後二十数年間、滋賀県の中・小学校で同和教育に専念した平井清隆氏は、つぎのように語っている。
「わたしは、狭山裁判は、単に石川君が裁かれているのではなく、まさに、部落が裁かれているのではないかと思っています。それも、不当な、濡れ衣を着せられて、全国六千部落三百万人の人たちが‥」
この事件について、部落解放同盟を中心として百数十万人にのぼる公正裁判要請の署名がなされていることが、明らかにそれを物語っている。「部落が裁かれている」という言葉によって表現されるこの事件の本質から、われわれは眼をそむけてはならないのである。
一審の判決は、被告の自白が信用できる根拠を、つぎのように述べている。
「(被告人は)捜査機関の取調べだけではなく起訴後の当公判廷においても、一貫してその犯行を認めているところであり、しかもそれが死刑になるかも知れない重大犯罪であることを認識しながら自白している・・・・」 一審の裁判官が、公判廷の自白に重要な証拠価値を認めていることは明らかである。一般的に言って、いわゆる冤罪事件の被告人が、捜査段階で拷問、脅迫、あるいは利益誘導などによって虚偽の自白をさせられた場合、公判では、その自白を否定するのが通例である。しかし、石川被告の場合は、公判になっても、最後までその自白を維持していた。しかも、これまでの証拠調の結果、彼の自白が虚偽であることは明瞭に示されている。「死刑になるかも知れない重大犯罪」について、このような虚偽の自白の維持は、わが国の裁判史上、かつて例を見ない事件であろう。
(続く)