アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1286

狭山事件公判調書第二審3978丁〜】

                弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)

                                                     昭和四十八年十二月八日

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                                   狭山事件の見方

                                                            弁護人=佐々木哲蔵

(犯行の時刻、死亡推定時刻に関する疑問三点についての続き)

   第三点は、本件は五月二日晩十二時、さのやの門という風に書き、現場を限定した脅迫文であります。この脅迫文には右の時刻を厳守せよ、「時が一分でもおくれたら、子供の命はないものと思え」という内容のものである。事の性質上、少なくとも現場では、たとえ一分でもゆるがせに出来るものではない。しかも現実には、まさしく十二時前後頃、現場に行っているのである。このような、さなきだに(注:1)時計的正確さを要求される身代金要求事件について石川君が自分の腹時計だけで危険極まりない現場へのこのこと出て行くことは、当時いくら無知の石川君であっても到底考えられないように思います。

   この点でも石川君の自白には大きな疑問を感ずるのであります。

   私がこれまで申し上げたことは石川君の自白が偽りであることについて、主として八海事件の先例を参考にして考えた反証のほんの一部に過ぎませんが、今申し上げたことだけでも石川君は無罪たるべきであります。しかも狭山事件には、その他にもいわゆる合理的な疑いが沢山あるのは、これから他の弁護人が申し上げるところです。無罪は全く明らかであります。

   それから、いずれ正式に証拠調請求をすることになると思いますが、先ず、真っ先に現場検証を御願いしたい。特に私としては、善枝ちゃんが、石川君の言うように、無抵抗にノコノコついて行ったということ、これは現場の情況からも極めて不自然であって、このことだけでも自白は信用出来ないとかねがね思っているのですが、これは、現場を見て頂ければよくお分かりのことと思います。それから例の万年筆の発見の情況、これは、警察の工作としか考え得られないことが、この現場を見て頂ければ直ちに判明する。その他、私が先ほど申し上げたような犯行現場での時間的関係、証拠物発見情況などで是非ご検証を、しかも真っ先に御願いしたいことを申し上げておきます。

   それから昨年の七月、六つの鑑定書の取調べ請求をした際にも申し上げたことですが、警察は、往々にして証拠の捏造をすることが実際にあるということを、是非、念頭において頂きたいことであります。前回には、私はこれは確かである二つの例を申し上げましたが、その後も、確かな例(例えば、警察が被害届を偽造した例)を知りました。これらの点は最終弁論にゆずりますが、私としましては、本件の証拠をご覧になる上において、警察官の証拠の捏造は現実にあり得るということを、これを、念を入れて申し上げておく次第であります。

   なお、狭山事件の見方について、特に一言付言して、私から申し上げておきたいのは、四人の変死者のことであります。死体発見の日に、特に、中田家の元作男、奥富玄二が、我々としては理解の困難な自殺をしている。被害者の姉登美恵が第一審の死刑判決後約四ヶ月目に自殺している。またこの事件について、当日三人の怪しい男を現場付近で見たという情報を警察に提供したという田中登が、五月十一日ナイフで心臓を刺して死んでいる。石田豚屋の兄が、登美恵の自殺前鉄道で轢死を遂げている。この四人のうち二人は中田家と直接の関係者、他の二人も本件の証拠関係などで狭山事件と関連をもつ人達ばかりである。この四人の変死者、これを偶然と言うにはあまりにも奇妙である。もとよりこの人達の死が直接真犯人に結びつくとは言い得ないにしても、この事件に何らかの関連があると考えるのは、むしろ一般の常識と思います。本件はこのような霧につつまれている事件であることも、是非念頭において頂きたいのであります。

   最後に結びとして次のことを申し上げておきたい。それは自由心証の主としての裁判官の謙虚さということであります。元最高裁判事であった故斉藤朔郎氏の「法と証拠の支配」という論文の左の部分を紹介して、私の意見陳述の締めくくりと致したい。即ち、「証拠の支配という言葉は私がここで初めて用いるのではないかと思うが、裁判官は、法のしもべであると同時に証拠のしもべでもなければならない。然るに証拠の面、即ち自由心証の世界では、主客が転倒していることがないであろうか。われわれは、法律に対しては、比較的よくその支配に服しているとは言いえようが、証拠に対しては、その支配に服するどころか、それを支配するような僭越を犯しているようなことがないであろうか。波立つ池の水、にごれる泉水は事物の姿をありのままにうつすことは出来ない。証拠に接するわれわれの心境は、平静にして清明な水面にたとえることが出来なければならない。事件に対して、何らかの理由で、異常な執念を燃やし、義憤をぶちまけていて、証拠の冷静な評価が出来るものであろうか。自由心証の本質は、証拠が現に備えている証明力をそれ以上にもそれ以下にも評価しないで、そのあるがままの証明力の支配に、忠実に服従する以外にはないのである」

   以上をもって、私の意見陳述を終ります。

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注:1さなきだ=「そうでなくてさえ」「ただでさえ」の意。