【狭山事件第二審公判調書3958丁〜】
「第七十三回公判調書」
第二、【昭和四十九年二月十四日付弁護人の証拠調請求について】
[青木弁護人]
青木弁護人は、昭和四十九年二月十四日付弁護人の事実取調請求書中、三証人の(一)北原泰作、(二)木村京太郎、(三)平井清隆、(四)松浦勇太郎について、
「これらの証人はいずれも鑑定証人という性格を持っております。具体的に狭山事件について事実関係を明らかにするという性質のものではありませんが、部落差別から被告人が警察官にだまされて、一審の最後まで虚偽の自白を維持した、それがどうしてそうなったのかということは、これら証人によって証明されるはずであります。そこでこれら証人の略歴をご参考までに述べてみますと、
(一)の北原泰作は、明治三十九年一月一日生まれ、大正十三年に全国水平社の一員として水平運動に参加されて以来、部落解放の問題に関わりを持ち続けて現在に至っております。現在の職業は岐阜県民主同和促進協議会の会員です。昭和二年一月岐阜歩兵第六八連隊に入隊してその年の二月、軍隊内の差別に抗議して天皇に直訴し、そのため懲役一年に処せられております。昭和六年除隊後、全国水平社本部常任委員となって水平運動に専念し、その間、治安維持法違反で投獄されたこともあります。
戦後昭和二十一年二月、部落解放全国委員会を結成して中央常任委員および書記長等を歴任しております。昭和三十九年、内閣同和対策審議会委員となり、答申完了後引き続き総理府の同和対策協議会委員として現在に至っております。
(二)の木村京太郎証人は、住井すゑさんの書いた『橋のない川』の主人公のモデルであります。明治三十五年に奈良県に生まれて、大正一年四月、全国水平社に加盟し、同年六月、大正村小学校の差別糾弾事件で禁六ヶ月執行猶予付きになり、それ以来水平運動に専念しております。大正十二年四月、全国水平社本部書記、同本部常任理事、大正十五年十一月、福岡連隊差別糾弾事件で懲役三年に処せられ、昭和三年三月、治安維持法違反で懲役五年に処せられて、昭和十年九月仮釈放で出所し、その後、奈良県大正村に帰って産業組合の書記になり、昭和二十一年二月、部落解放全国委員会結成によって中央常任委員、本部会計等を歴任しました。
昭和二十三年十一月、部落問題研究所を設立して、昭和二十六年十一月に民間学術研究機関として社団法人の許可を受け、現在まで常務理事として専念しております。部落問題研究所というのは、部落差別の歴史の研究および社会問題、経済問題、同和協議等に関する研究機関として、現在まで引き続き調査・研究・啓蒙の役割を果たしている機関です。
(三)の平井清隆証人は明治三十八年四月十日生まれで、現在は滋賀県の同和教育指導員をしております。大正十一年に県立タチバナ商業学校を卒業し、大正十二年四月小学校教員に就職して以来、昭和三十九年三月退職するまで小中学校に在職して、その間、部落の子弟を地区に持つ小中学校において、同和教育に努力して来た方です。昭和三十九年退職後、滋賀県の同和部嘱託の指導員として部落史研究に専念して現在に至っております」
(続く)