(当時の狭山市内)
【狭山事件公判調書第二審3879丁〜】
『供述調書』①
住居:狭山市大字堀兼○○○番地 佐野とよ子(高校生)
右の者、昭和三十八年五月二十九日狭山警察署入間川第一駐在所において、本職に対し任意左のとおり供述した。
一、私は川越高校入間川分校へ四月に入学して毎日自転車で通学しています。
二、殺された、中田善枝さんとは、小学校、中学校も同じ学校でクラスが一緒でしたことも一回ありました。入間川分校は、現在は一クラス十六名で、中田さんが亡くなる前は同人を入れて十七名でした。
三、中田さんとは、同じ堀兼ですが、学校への通学コースは、私と違っていたので、一緒に帰ることは殆どありませんでしたが、四月三十日には二年生が修学旅行に行き、私と一緒に同じコースを通っていた人が居なかったので、中田さんと一緒に狭山精密の前を通って薬研坂を通り、帰宅しました。
四、五月一日は、午後二時三十五分頃、授業が終わり、クラブ練習としての卓球はしませんでしたが、遊び半分に暫く卓球をして、私は午後四時頃、学校を出ました。自宅まで約三十分かかりますが、途中では雨に会いませんでした。帰り着いてから間もなく雲が出て暗くなり、約十分くらいして強い雨が降って来ました。その日、中田さんは授業が終わって一寸卓球をして遊んでいましたが、暫くして教室に戻りました。私が卓球を辞めて廊下に居た頃で三時半頃、私に「さようなら」と云って学校から帰りました。その時は、雨が少し降っていたような気がします。中田さんは傘を持っていないから早く帰ると云っておりました。
なおその前に、郵便局に寄って行かなくちゃ、と云っておりましたので、多分郵便局に寄ったのではないかと思います。
五、その前に中田さんと学校で話をした際、私が「雨が降っても、傘を借りる所があるから」と云ったところ、中田さんは、傘を借りる所は学校附近にはないような口ぶりでした。
六、中学校の同級生で入間川の近くに居る人としては内田あき子さんが居ります。内田さんは菅原町に居る人で、中田さんと親しくしておりました。私達が小学校の時、菅原町のその内田さんの家の前を通って入間川小学校に行ったことがあります。なお、中田さんは、何時も薬研坂を通って高校に通学していると云っておりました。
佐野とよ子 印
右のとおり録取し読み聞かせたところ誤のない旨申立て署名指印した。
前同日 浦和地方検察庁
検察官検事 原 正 印
検察事務官 滝沢 弘 印
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【同3881丁〜】
『供述調書』②
住居:狭山市大字堀兼○○○番地 佐野とよ子(高校生)
右の者、昭和三十八年七月一日入間川分校において、本職に対し任意左のとおり供述した。
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○善枝さんの万年筆はたしか「濃い桃色に 金色キャップ」のもので、手帖に差したり筆箱に入れたりしていました。
"この時本職は昭和三十八年領第一六四号符号一〇九号万年筆一本を示したところ"
お示しの物が、善枝さんの万年筆に色・形・大きさがそっくりだから間違いないと思います。
○善枝さんの財布は、縦十センチ、横五センチくらいの大きさで、水色のビニール製でチャック付であり、一部分に黒い部分がありました。
○善枝さんは、私と同じ堀兼中学卒で卒業の時、下級生から卒業記念に手帖を貰って高校入学後もいつも持っていました。
その手帖は、縦十センチ、横六センチくらいでカバー付の小型ルーズリーフで、私のは、草色格子の模様のカバーだったが善枝さんのは、薄桃色に所々黒っぽい小さい四角が入っていました。
カバーの一面にはビニールの透かしがついており、バスや身分証明書を入れるようになっていました。
またカバーの端に細い鉛筆がはめ込めるようになっており、私はその鉛筆をそのまま使っているが、善枝さんが、その手帖に鉛筆を差していたかどうか忘れました。私の覚えているのは、善枝さんはそのビニール透かしの部分に私達の中学の校舎のカラー写真を高校入学後も入れていたことであり、身分証明書をその裏側あたりに入れていたかどうかは、はっきり覚えていません。
善枝さんは、財布・手帖をカバンに入れていたことがあり、私も放課後一回見ているが、いつもそうしていたかどうかは判りません。
○私は善枝さんと家が近いので、高校へ入ってから事件の前の日に一回だけ一緒に帰ったことがあるが、その時は狭山精密の前を通って薬研坂を越えて帰りました。
供述人 佐野とよ子 指印
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前同日 浦和地方検察庁
検察官検事 河本仁之 印
検察書記官 橋上 英 印