【狭山事件公判調書第二審3755丁〜】
和歌森太郎・上田正昭による『鑑定書』 四、鑑定結果に至る総合的判断について(3)の続き。
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屍体遺棄の場所から西南約二〇メートルの麦畑の端の甘藷貯蔵穴から発見された「棍棒」は、イゴの木を切ったものであり、「長さ〇.九メートル、中央の太さ周囲十センチで、全長約三分の一くらい裂けた方に土が付着し、土の付着した状態は、この棒を一度泥土に差し込み抜き出したような状態であった」と実況見分調書に書かれている。これはいわゆるハジキの葬送習俗が変形して棒杭を立てるようになった例に類似するもので、実況見分書に記す「棍棒」と関連があるように思われる。イゴの木の「棍棒」の発見も「玉石」の墓制と全く無関係であったとは考えられない。
なお狭山市教育委員会教育長兼野々宮神社宮司の宮崎茂景の証言によれば、同氏の関係する神葬祭型による埋葬の場合には、南方に頭部を向けるという。これは神葬祭型の埋葬形式に多いもので、当然のことではあるが一応参考にすべき事項であるので付記する。
(4)
以上述べた如く、実況見分調査書に見られる本件屍体埋没状況と、当該地方における墓制制度とを比較し、本件実況見分調書記載の「玉石及び棍棒」と当該地方の墓制制度を、文献と調査に基づいて検討すれば、本件の屍体埋没の状況は、当該地方の墓制と関係を持つものであり、「玉石」は明らかに墓石の墓制とつながりを持つと判断される。とくに墓石は、すべて川原から運ぶのを原則としており、本件屍の埋没状況における「玉石」もまた川原から運ばれた形跡が濃い。
また「棍棒」は、いわゆるハジキの葬送習俗と関連を持つ棒杭のたぐいに類似しており、ハジキが常置のものではなく、ある一体の期間が過ぎると抜きとられて遺棄されるものであることも軽視し得ない。
前述の文献と調査に基づく前提に鑑みるとき、犯罪者は墓石やハジキの墓制と葬送法を体験ないしは熟知している者ではないかと思考されるのである。
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昭和四十七年七月十九日
鑑定人 東京教育大学教授 和歌森 太郎 印
同右 京都大学教授 上田 正昭 印
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(被害者の遺体が発見された時の模様。写真は"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)
○農道に埋められていた被害者の遺体を発掘した際、その頭部付近からは人頭大の石が見つかったわけだが、関東ローム層の土質においてこのような大きさの石が土中に自然に存在することはないという以上、この石は明らかに人為的に、何らかの意図が含まれ遺体と共に埋められたことは間違いないであろう。
遺体と共に見つかったこの石は警察により領置されることとなるが、これは捜査のプロから見て、何らかの違和感、疑念を感じたゆえの処置であったと思われる。
ところが石川一雄逮捕後、捜査当局はこの石を被告がどこから調達してきたかについて追及していない。芋穴から見つかった棍棒も同様である。この棍棒についても、なぜ棒の三分の一に泥土が付着しているのかについて解明出来ないままである。
弁護団による緻密で丹念な証拠物の検証に対し、捜査当局は恐れおののき、恥じ、穴があったら隠れたい心境であったと推測する。