【狭山事件公判調書第二審3754丁〜】
和歌森太郎・上田正昭による『鑑定書』 四、鑑定結果に至る総合的判断について(3)の続き。
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ところで、狭山市の富士見地区被差別部落の葬送・墓制の習俗はどうか。被差別部落は川越市時宗十念寺の檀家で、狭山市内には檀家としての寺院はない。富士見地区の被差別部落の墓地は、前自治会長:水村勝之助の証言によると、もと三カ所に分かれていたのを、昭和六年八月建設の現地碑文にあるように、昭和六年の頃に現在の「新田共同墓地」にまとめ、爾来、部落全体の共同墓地となっている。この共同墓地には、享保十九年(一七三四)、寛保(一七四一)、宝暦四年(1754)、宝暦十年(一七六〇)などの碑銘のある墓石碑があり、少なくとも江戸時代中期より墓石碑をもった墓制習俗のあったことが確かめられる。
その伝承は今日まで当該部落で伝承されながら、注目すべきことに前記の墓石(拝み石)の習俗は全くない。ここは単墓制であるため、石塔・石碑を立てて拝み墓にしているが、単墓制の場合でも、目印としての墓石(拝み石)を置く例は狭山市内の一部にもある。
前記「埼玉の民俗」にも狭山市近隣にそうした例が紹介されているが、埼玉県入間郡日髙町の真言宗智山派聖天院境内の墓地の墓石(別紙添付写真"ニ"参照)、同新堀ししいわの墓地の墓石とハジキ(別紙添付写真"ホ"参照)などは単墓制の場合であって、現在も墓石碑あるいは石塔を立てるまでの間は墓石が埋葬地の上に置かれていることを示す。日髙町の古老の話ではこうした墓制は、日高町全域に伝承されており、越生町でも玉川村でも受け継がれているという。
しかるに狭山市の富士見地区被差別部落においては、単墓制ではあるが、墓石(拝み石)の習俗は全くない。また竹を立てる習俗も、かなり以前に消滅しており(水村勝之助の証言では昭和十年までという)、そのような慣行は認められない。
(続く)