アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1216

狭山事件公判調書第二審3752丁〜】

   和歌森太郎上田正昭による『鑑定書』 四、鑑定結果に至る総合的判断について(2)の続き。

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   さらに魔除け、オオカミ、犬などを避け、埋め墓を守ろうとする習俗も、格別珍しいことではないが、この方は近代に入り、単に塔婆を立てることを以って代えられてくる傾向になっているものが多い。

   事件によって殺害された若い女性が、身体を縛りつけられ、うつ伏せに穴の内に入れられたことは、確かに尋常ならざるもので、そのような埋葬形式は日本のどこにもない。

   また南に頭が向くように据えられているのも、北あるいは西に向けるのが中世以来の一般的習俗となっていて、これもまた普通ではない。

   だが、該屍体の頭の傍に自然石を一個置いていること、さらに死体発見現場付近の芋穴から発見された棒きれが、一旦はそこに立てられたものではないかと怪しまれることは重要である。この二点を如何に鑑定すべきかが問題である。

   犯罪者は、あくまでも屍体の隠匿を期して当該の穴に屍体を埋没したものである。したがって残土がきれいに処理されている。そこに目印様のものや魔除けのようなものを残す必要もなく、屍体埋没の場所に石を入れたり、拝み石などを据える必要もない。

   しかるに実況見分調書の記載にある如く、「死体の右側頭部に接して人頭大の玉石」がありまた、「全長三分の一くらい裂けた」「棍棒」が発見され、その「裂けた方に土が付着し、土の付着した状態は、この棒を一度土に差し込み抜き出した様な状態」であった。

   そこには、はしなくも前記「埼玉の民俗」に見られる、石と棒あるいは竹を用いた葬送や墓制の習俗と類似する要素が見い出される。屍体を埋める過程で、当該地方の土地の生活者として、日頃体験し熟知している習俗が、反射的に犯罪者の行為に作用したのではないか。その点が葬送・墓制との関連において疑われるのである。

                                           (3)

     そこで両鑑定人は、改めて狭山市内の墓制を実地に調べ、寺僧・元自治会長・古老などと面接し、葬送や墓制について採訪することを決めた。そして昭和四十七年七月九日・同月十日、両鑑定人による調査を実施した。

    その結果、前述の東日本に広く分布する葬送・土葬の習俗が、「埼玉の民俗」に指摘する通り、現在もなお狭山市内およびその周辺において伝承されている習俗であることを、狭山市内および入間郡日髙町新堀(旧高麗村内)などにおいて確認した。

   狭山市内の広瀬・笹井・根岸の各地区に檀家を持つ真言宗智山派光明寺(狭山市根岸八一)の管理墓域においては、両墓制が継承されていた。寺の裏側に埋め墓があり、表側に詣り墓がある。その埋め墓は、一族によって埋葬地が区画されていて、その一区画は、概ね縦約六メートル、横約二.六〇メートルで構成されている。その一区画内に二列の墓石(拝み石)があり、一列には五ないし六の墓石が置かれている。

   この両墓制を現地の古老はヒキ墓と呼んでいるが、この墓石は墓穴に埋葬した被葬者の土の上に置かれている。墓石は、縦二〇センチ内外、横十六センチ内外、高さ(幅)十三センチ内外のものが多く(別紙添付写真"イ"参照)新井千吉氏所有にかかる私農道の、屍体(埋没)発掘現場で発見された「人頭大の玉石」と同類の石であった。参考のために、任意に墓石を計測したがA石は縦二〇センチ、横十六センチ、高さ十三センチ(別紙添付写真"ロ"参照)、B石は縦十六センチ、横十七.五センチ、高さ十一センチであった(別紙添付写真"ハ"参照)。

そして墓によっては粗雑な棒が、杭のように一、二本立てられていた。この種の物を入曾地区では、かつてハジキと称していたという。このような棒、杭、あるいは竹を立てる形態は堀兼地区においても認められた。ごく新しい埋め墓においても同様であった。

(続く)