【狭山事件公判調書第二審3750丁〜】
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四、鑑定結果に至る総合的判断について
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事件の起こった昭和三十八年当時の習俗は、最近における狭山地方の著しい近郊都市化の様相にともなって次第に崩壊しつつある。他地方よりの流入人口もまた多く、旧来の狭山市内各地に伝承してきた習俗は攪乱しつつある。
だが、そうした中でも、死者を墓に葬る墓制・葬送の習俗は、元々から地つきの同市内各部落居住者の間には、なお伝承的な慣行がほぼ伝えられている。他の一般的習俗に比べると、葬送儀礼に関する習俗は、とりわけ旧態が保守される傾きがあり、事件の起こった九年ほど以前の習俗を、今日の時点における習俗の中に探ることは決して不可能ではない。
そこで、両鑑定人はこの地方の民俗調査業績として最も水準の高い「埼玉の民俗」(埼玉県教育委員会編、刊、B5版全四二六ページ)を参照しつつ、実地に同市内各地および周辺にある墓制・葬送習俗を検分し、且つ寺僧など各関係者から習俗的事実について採訪を行なった。因みに右の「埼玉の民俗」は、文化財保護委員会が各都道府県教委に宛てて委嘱した埼玉県民俗資料至急調査報告であって、昭和四十年三月に刊行されたものである。
埼玉県内には、火葬よりも土葬形式で屍体を埋める風習が未だに広く伝わっている。次第に墓地の狭小化が著しくなり、流入人口の増大を見るに至れば、火葬形式に変貌することは必至であろうが、今のところ、農業地帯の在来住民の慣行としては土葬形式が堅持されている。
この点に関しては、被差別部落についても同様である。「埼玉の民俗」では、狭山市に近い所の習俗事例として、入間郡日髙町高麗本郷におけるものが挙げられている。そこでは、「埋葬した上には石を置き、野位牌を立て、その前に膳を置く。棺を担いだ棒を土盛りの中心に立て青竹を割り、両端を半円になるように突刺す。オオカミ除け、または魔除けの意だという」とある。
これに類する、「埋葬した上に石を置く習俗は、北埼玉郡北川辺村でも認められており、大里郡寄居町でも同様である。また児玉郡上里村金久保でも『埋葬した上に石を置き"これはここに埋めたという目印・・・・・・原書の註"割竹を刺した。これを息つき竹とも言った」とある。
秩父郡大滝村滝之沢の場合は「土葬の場合の穴の深さ一メートル五十センチ〜二メートルくらいで、始めに小石、大きな石等を多く入れて、後から土をかけて石を立てておく」とあり、墓穴の内と表面とに石が置かれる習俗があった。このほか秩父郡吉田町下吉田でも、「埋葬した場合は石および割竹を置く」とあり、四十センチの自然石をオガミ石という。
このように、埼玉県内では土葬形式において、石を屍体と共に埋めたり、あるいは石を埋葬地の上に据えたり、あるいは棒ないし割竹を刺すという習俗のあったことがわかる。これは必ずしも埼玉県内に限らず、東日本の各地に多く見られる。その石の意味は、いわゆる石塔などを以ってする墓碑以前の習俗を伝えたもので、拝み石と呼ばれ、狭山地方では墓石という。ただ、埋葬地とは別に拝み墓を設け、供養をその拝み墓に対して行なう、民俗学上のいわゆる両墓制の伝承するところでは、埋め墓の石は、ただの目印の如くに考えられるに至っている。
このように、屍体を埋めたところには、石を据えるべきだとする通念が、一般の村落民のあいだに伝承されていたことがわかる。
(続く)
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○昭和三十八年五月四日、農道に埋められた被害者の遺体が発見され、その頭部に接する位置からは人頭大の玉石が掘り出された。
小石さえも見い出しにくい関東ローム層の土質からみて、この石は何らかの意図のもと被害者と共に埋められていたのではないかという疑いが持たれ、今回の鑑定へとつながった、と老生は解釈している。上の写真の石が遺体と共に見つかったものだが、これが狭山地方に伝承されてきた葬送方法と関連するのかどうか。下の写真は現実に伝承され狭山市内に実在する埋葬地の状態である。
まったくこの事件は謎に満ちているな。