アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1214

狭山事件公判調書第二審3747丁〜】

                                   『鑑定書』

                                                              和歌森太郎  印

                                                              上田正昭      印

                                            *              

一、鑑定資料

    昭和三十八年五月四日付狭山警司法警察員警部補大野喜平作成による実況見分調書及び昭和四十七年七月九日・十日の和歌森・上田両鑑定人による本件現場付近における現地調査。

二、鑑定事項

   (1)本件屍体埋没状況と当該地方における墓制制度について。

   (2)本件実況見分調書記載の「玉石及び棍棒」と当該地方の墓制制度について。

三、鑑定結果

(1)本件屍体埋没状況と当該地方における墓制制度について。

      ○昭和三十八年五月四日、埼玉県狭山市入間川二二五四番地(現祇園地区)農業新井千吉氏所有にかかる私農道より発掘発見せられた屍体埋没状況は、当該地方における土葬の形式と関係があり、屍体の右側頭部に接して玉石一個が発見された埋没状況は、狭山市内及び周辺地域に伝承されている墓石(拝み石)の墓制と関係があると判断される。

(2)本件実況見分調書記載の「玉石及び棍棒」と当該地方の墓制制度について。

     ○狭山市内及び周辺地域の墓制・葬送習俗においては、墓石(拝み石)を埋葬地の上に置く埋め墓と、魔除け、あるいはオオカミ・犬などを避けて、埋め墓を守ろうとする、いわゆるハジキの習俗が伝承されている。本件実況見分調査書記載の「玉石」は、墓石(拝み石)と対応するものであり、「棍棒」はハジキの変形と思考される。しかるに狭山市富士見地区の被差別部落の墓制及び葬送習俗においては、墓石の制度は全く認められず、またハジキの習俗も残ってはいない。よって本件犯罪者は、墓石の墓制やハジキの葬送習俗を体験、ないし熟知していた者ではないかと推定せしめるものがある。

四、鑑定結果に至る総合的判断について

   (1)

   実況見分調書によれば、被殺屍体は昭和三十八年五月四日、埼玉県狭山市入間川二二五⚫️番地、農業:新井千吉所有にかかる私農道から発掘発見され、右屍体は縦一.六六メートル、横〇.八五メートル、深さ〇.八六メートルの「元穴」に埋没されていた。そして「死体は穴の底に頭部を南方に向けうつ伏せとなり、死体の右側頭部に接して、人頭大の玉石一箇を発見し」た。「死体の右側頭部に接してあった玉石は二〇糎×一三糎、高さ一三糎であり、重量は四.六五キロであるがこれも領置した」と記す。

   なお右発掘現場の農道沿い西南約二〇メートルの麦畑の端にある甘藷の貯蔵穴から「ビニールの風呂敷一枚及び棍棒」を発見した。この「棍棒は長さ〇.九米、中央の太さ周囲十糎で、全長の約三分の一くらい裂けた方に土が付着し、土の付着した状態はこの棒を一度泥土に差し込み抜き出した様な状態であった」と記す。この「風呂敷一枚及び棍棒を被害者の兄に提示したところ、被害者のものでないことが判明、本件犯行に使用した疑いがあるので」これも領置されたと実況見分調査書に記載する。

   このような屍体埋没の状況は、犯罪者が屍体隠匿のための複雑な心理状況のもとで行なった結果を示すものと考えられる。したがって一般の屍体処理の方式と通じるはずはないと一応は考えられやすいが、他方、犯罪者が野外路上に殺害屍体の隠匿をはかる際に、急遽敏速に事を処置するためには、いわば反射的に、その時と場所に応じた処置をする中で、平素熟知している屍体埋葬の方法が、無意識的に現われることもありうるべきことである。

   その一見偶然と思われる行為にあっても、犯罪者自身がその郷土生活において体験または行為した葬送・墓制の習俗が露呈する場合のありうることは、鑑定人たる和歌森・上田が専攻する日本宗教史・日本民俗学の立場から考えて、推量することができる。

   したがって、当該事件の容疑者が事件の起こった狭山市内とその周辺に居住してきたものに絞られる限り、当該地域での一般的な屍体埋葬の方法が、伝承的習俗として如何になっているかを調査することの意義は十分にあると判断した。

(続く)

                                            *

   ○鑑定書にある「ハジキ」に関して、これを詳細に説明するような資料が見つからず、ここでは老生の記憶を頼りに記す。写真に見られるように墓の周りに白く細い棒が複数本、地面に差込まれているが、これが「ハジキ」と呼ばれるものである。

   土葬された屍体が放つ匂いを嗅ぎつけ、野犬や他の獣類がこれを掘り起こそうとする。するとこの曲げられた棒がバネのように伸び弾け、驚いた小動物は退散するというわけである。

   昭和初期からどれぐらい土葬が続いたのか、これも興味をひく事案だが、老生が幼い頃、親父は土葬の話をよく話してくれた。ちなみに親父は岩手県盛岡市近郊で生まれている。

   その辺りでは人が死ぬと木製の大樽を用意し、屍体をその樽に入れるのだが、樽に対して屍体が大きい場合や、時間が経ち過ぎ屍体が固い場合、この樽詰めが難儀であったという。関節やらどこやら、折曲げられるところは皆で強引に曲げ樽に収めたらしい。蓋をしたら土中に埋め、埋葬終了である。

   ついでに言えば、墓場では人だま(人魂)もよく見たという。土葬された地面上をほのかな炎がゆらゆら漂うという表現をしていた。玉のような形状ではないらしいが、いずれにせよ昭和時代とはなかなか深い時代であったのだな。